空’s diary

大学3年生。徒然なるままに。

無タイトル

「信じる」というとき、その対象がビジョンなのか、今現在にあるものなのかによって、意識がガラッと変わるんだろうな。どちらに依拠したいか、か。それは簡単には選べないんじゃないかな。人間は、未来がこうであってほしい、こうありたいというビジョンを正しく抱かなければ生きていけないし、でもその時に今現実に起こっていることを蔑ろにしてはいけないのであって、今をちゃんと見つめてこそ、未来に実現したいものを達成することにつながるんだと思う。
ここ、人間の本質的な部分かもしれないな。未来のためのビジョンを直接探究するのか、今を見つめるのか。
たぶんこれは簡単な二項対立図式としては捉えられなくて、どちらかに偏りすぎると純粋に不都合がおきるんだと思う。
その上で考えると、今を見つめるという時起こりうるのは二つあって、まず一つは、今だけに終始すること、そして二つ目は、あるべき未来を見据えて、今を直視すること。
たぶん、私にとってはこの二つ目の生き方をしてみるのがいいと思う。
今までは、今しか見ていなかったり、未来しか見ていなかったり、極端な思考をしていて、それゆえに色々とあかんくなっていた笑笑
これからは、安易な「今をだけを楽しく」でもなく、今を忘却した「単なる未来志向のみを探究する」のでもなく、ちゃんと今の現実を直視しながらあるべき未来の姿を構想することが大事なんだと思う。
まずは、その姿勢で生きるようにするべきなんだと思う。
こういう姿勢を持ったならば、自分が自分の力を注ぐべき対象を選択する時には未来志向の哲学から学んで思考ををし、選び、選んだ対象のもとでその対象を正確に知り、とらえ(そう、ここでは自分という存在は基本的に"無知"だから、それを分かってちゃんとその場やその場の人々から学ぼうという姿勢をもたないといけない)、その対象の中ではどういったことが起こっていて、それはいかにして起こっているのかを明らかにしたならば、そこから得た学びを、現場をよくするのに活用するべきなんだと思う。このときの"よくするために活用する"というのは、ある程度未来志向で正しいとされるものを根拠にしていいと思うんだよなー。

私にとっては、「バランス」はキーワードになるかもしれないな〜笑
バランスというとき、何にも基準がなくてそのつどグラグラするということを指してるんじゃなくて、むしろ、確固たる

信念「あるべき未来を見据えて(共に目指せる他者がいるなら嬉しい)、今を直視し、理解すること。そして今を基準に、未来の志向を作っていくこと。」

学問に向き合うときは、この姿勢を持つのがいいんじゃないかと今のところ思っている。これは私の経験から導き出したことである。はい。(ちなみに未来の志向は、現実になめして初めて、妥当になると言えると思うよー)

注意しときたいのは、どちら偏重になってもいけないということだな。
まあ、どちらかが偏重になったら私はきっとそれを察知してバランスを整えられるだろう。

ただし、注意しておきたいのは、この姿勢を人生すべてで持ち必要はないのかもしれないということさね。そうするとまたきついかもよ。

 

ただまあ、今は現実偏重になるといいんだと思う。完璧主義はもう捨てよう👋

書き散らし

制度として固まると言うことが、必ずしも共同体的な閉じられたものを意味しないと言うこともあり得ると言うのはめちゃめちゃ面白いなと思う。
もちろんお互いの間で、葛藤や衝突は内的にあるけれどもそれが良い方向に結びつく時と悪い方向に結びつく時がある。良い方向に結びつく時、個人は他者に対して倫理的に開いていると言うことがあると思う。いわゆる偽りのない状態と言うものであり、現代社会のビジネスや市場モラル的なものとは正反対の態度であると思う。そのような態度の下で他者と葛藤がありながらも関わり合う事を続けることによって、共同体的に閉じられていないけれども制度としては安定した集まりと言うものが出来上がるのだと思う。
いわばこの形はコモンズとも言えるものであって、そこにおいては各人の意見が共通の目標のもと集約され認められたり却下されたりしながらも、あくまで各人の人格は全肯定されており安心がある。
このような形をまさに形式として持っているのが、哲学対話だと思う。だからこそ哲学対話的なものはこれからの時代において、人々の関わり合いにおいて大事なものと思うが、最初から哲学対話的なものを目指して個人がそこに向かって、初めから完璧な倫理的人格持つことを要求されると言うのは違うと思う。倫理的な性格すなわち他者と自分に対する責任を自分が持続して持ち続けると言う事は、継続的に相手と関わるプロセスの中で育まれていくものであって、初めから完成された倫理的な人格と言うものを持って相手と向き合うという事は、少し的外れなことだと思う。だからこそ、哲学や倫理学の議論において、倫理的な主体とは何かと問うときは、完成された方意味での人格と言うものを議論するべきなのではなく、むしろ他者との相互の関わりの中で、今はコモンズのような中で継続して育まれるべきである、人格と言うものについて、開かれた柔軟なものを想定して議論するべきである。すなわち関わる他者に応じて柔軟に変わるけれども、しっかりとそこにおいて生じる様々なバリエーションの責任や倫理を引き受ける自己と言うものがいかなるものであり、いかにしてそんな自己の名を形成することができるのかを、議論するべきなのだと思う。
だから決して、私にとって部活の時との関係と言うものは、単なる世間的に一般的にイメージされる馴れ合いのようなものではなく、非常にコモンズなまとまりを持った集団なんだと思う。

コモンズの形成と言うことに対して新型コロナウィルスがもたらした影響とは、直接的なものと言うよりは、むしろ個人の分離を促進するような近代社会に対してカンフル剤として働いたように思う。だから、別に新型コロナがなくても、人々の間の物理的な分離は進んだだろうけど、コロナがあったことでそれが促進されて徹底的な形で行われたのだと思う。
いわば、ゆっくりと共同体的なものが解体されていくはずだったところで、凄いスピードで解体される事となってしまっていると言うことだと思う。コロナによって直接的にコモンズの形が変わったと言うよりは、もともとそのように変わるはずだったものがコロナによって促進されていると言うふうに捉えるのが正しいんじゃないかなと思う。コロナはそういう意味では、コモンズが変わるための必要条件なのではなく十分条件と言うふうに言えるのではないか。いわば他に代打もあったと言うこと。

哲学対話についても一言加えておくと、私は哲学対話と言う1回きりの営み自体に興味があると言うのではない。もちろんそれを一回行うことによってその場における人々が新しい形で作用して新しい知見がそれぞれに得られると言うメリットもあると言うのは変わりないけれども、あくまでそのような新しく生み出されるものを楽しむということが私にとって哲学対話の持つ意味なのではなく、哲学対話の中で可能にされる可能性のある倫理的な空間と言うものに興味があるのだ。だから一回きりの哲学対話を扱うそのような面でプロになるのではなく、継続的な他者との間の責任だったり倫理と言うものを空間の中で実現させていくために、哲学対話のような対話の形と言うものは大いに参考にされるべきものだと思っているということ。


これからの時代の道徳や倫理と言うものが議論されるべき要点は、共同体的に閉じられていないけれども人と人との温かい集まりと言うものが継続的に経験されてその過程の中で獲得される何か(例えば責任や倫理)といったものを自分事として、他者と共に生きる世界の中で引き受けているような自己と言うものがいかにして形成されるのか、そしてその内実はいかなるもので、集まりにいかに関わるのか、そしてらどう関わるのが幸福なのかということだと思う。

 

そもそも他人への向き合い方についてだが、他人を分からなくて怖いものと捉えて、その他人から自分を守るために自分の殻の中に入ってしまうのか、それとも知らない深い部分がある他人と言うものを「面白いもの」と捉えて開いた自分で向き合うかここにかなり根本的で究極的な差があるんだと思う。今の人々の状況よくわからないが、かなり多くの人が、前者の状況に陥ってしまっているのではないかと思う。そうさせてしまう背景としては、自分が武装することで上にのし上がっていくと言う心理テクニック的なもしくはビジネス的なもしくは市場モラル的な価値観と言うものを持つ者ができる奴と言うイメージが付与され、世の中に広がってきてしまっていると言う背景があるのではないか。その背景はかなり古臭いものだとみんなが実感するべきだと思う。まず多くの人の側で前者から後者の人間観への転換が起こらない限りは、大きな社会のレベルで、後者の人間であることで初めて可能になる倫理的に開かれた自己と言うものを実現する事はかなり難しいのではないかと思う。

バズりと哲学


あるツイートがバズっていた。

ツイートは、

「今の時代、対話が大事である。それといわば対比的な立ち位置にある論破は、生産的ではないし、前提としている思考ゆえに危ないものだ」

という趣旨の主張をしていたと私は解釈した。


ただ、これにいいねした人たちは、発言者自身の問題意識について知っているわけでもなければ、そのツイートの立脚している議論背景を知っているわけでもない。
単に、論破が幅を利かせちゃっている世の中に対して「何となくいやだな」と思っている人たちが、200字という短い言葉を単に記号として消費しただけだ。

今回のツイートだって、発言者の意図に反して、論破vs対話という単純図式のみが切り取られ、高速で消費されてしまっている。

本人の意図しないところで、発言者と、仮に想定される発言者に反対する者が、ボクシングのフィールド上で殴り合う図式が作り上げられてしまう。そんなもの、実在しないのに。

そもそも、やっぱ批判に対してすぐに「バトル」や「勝ち負け」を連想してしまうのも、資本主義に毒されているわけだが、そういった二元論的・単略的な見方が、Twitter上の群衆の側にあるんだと思う。

 

正直、高速で消費される200字の言葉で何かを真の意味で伝えることって、不可能なんじゃないかと思う。

哲学のゆっくりとした思索に立脚した「言葉」を、世の中に伝えていくには、同じくゆっくりとしたやり方を取るべきなんじゃないかと思った。つまり、ゆっくり形作られたものは、ゆっくりとしか本当の意味で理解されないのではないかと思う。

 

Twitterと哲学は、その背後に控えている「人の意見と向き合う姿勢」の点でかなり相違がある。ゆえに、相性が悪い。

 

ただ、現代の世の中で大勢の人に何かを伝えようと思ったら、Twitterは大きな手段だ。

ただ、Twitter上の人々は、自分が知っていること、自分の立場を強化してくれるものにいいねするだけで、そこにあるのは、冷笑的とも言える「だよね〜」的な軽いノリだ。時には、「よく言ってくれた〜!」的な強い感銘もあるのかもしれないけど、結局それは自分の、というより社会一般の意識に同調した形なんだと思う。個人と社会ってやっぱりどっちがどうって難しいんだけどね。

 

こんな性格を持つTwitterで、哲学の知を本当の意味で広めるのは、いくら言葉を工夫しても難しいのではないかと考えたりした。
ただ、発言者のツイートは、そんなに大きな批判にさらされていないのが不思議だ。発言者の文章が妥当な書かれ方だからか?

 

というかそもそも、人々が、論破のパフォーマンス性に気づき始めてる面もあると仮定することもできる。

 

TwitterTwitter上の人々像って、考えてみるとなかなか面白いな。

・数の多さゆえの暴力性や権力

・記号として消費されること

・背景の文脈を欠いていること

・自分の既存の価値観に合致するものだけ選んでいれば満足すること

Twitterに向き合う姿勢自体がシニカルで軽く、真の意味での現実と結びついていないこと

・「当たり前」のことをちょっと工夫して言ってくれるツイートが好まれる

・スワイプしたら次に切り替わるという経験の温床

 

これらが、バズりを通して私が見えたTwitterの特徴である〜

将来の夢、という言葉が正しいのか分からないけれど

「将来の夢は何ですか」

小学校のころから大人に聞かれ続け、進路を決める節目節目に考えさせられたこの問い。

この問いは分析してみるとなかなか面白い。
この問いの前提には、

・人は何かしら確定された将来像を描くものだ
・人は人生過程をその像に向かって一直線に向かうものだ
・夢は具体的な業種で表されるものだ

などが控えている。
ちょっと前提を問うてみただけでこれだ。

言い換えれば、これらの前提って
「物事には正解があって、それに向かって真っすぐコースを走り続ければ必ずたどり着ける」という、成果主義的な価値観が元にあるように思える。

更に言うと「人々は一定の時期になったら労働者という形で社会の中に組み込まれ、特定の職業のラベルを背負って社会の中立つべきだ」という資本主義を根底に据えた価値観から、この問いは出てくるとように思える。

 

こう掘っていくと、なんだか「将来の夢は何ですか」という問いに限らず、
「将来の幸せのために多少今を犠牲にするのはやむを得ない」といった考えなども、なんだか怪しく思えてくる。

この考えだって、「幸せは塔の頂点にあるものだから、登る過程が苦役でも耐えるべきなんだ」という思考が隠れている。

 

私自身も、「問う」という思考方法を学び始めるまでは、上のような言説の背後にある価値観まで無意識に背負ってしまっていた。

そしてそれに無意識のうちに規定され、正直とっても苦しかった。
たぶんこの苦しさを抱えている人は世の中でも少なくないんじゃないかと思う。
今までの私は、その苦しさの正体が分からなかったし、そこから抜け出すすべも知らなかった。ただ、何か生きづらいなという感覚だけがあった。

 

ただ、最近になって、哲学と運命的な仕方で出会う機会があって、「問う」ということの計り知れない大きな力を知ることになったわけです。

今大学3年ということもあって、将来の生き方について真剣に考えるようになる時期ですね。同年代の子たちと一緒になって、ああ、就活か…なんてぼんやりと思っていたわけです。

ある時が来たら就活サイトに登録して、なすがままに自分の将来が決まってしまうのか… 私はなぜかそれがすごく怖いことだと思って。だから真剣に考え始めたんです。

 

そもそも、幸せに生きたいと思うのはなぜだろうか。「幸せ」の内実は私にとって何を意味しているのだろうか。そもそも、幸せは直線的に目指していって到達できる種のものなのだろうか。幸せという頂点があると想定すること自体、今の時代の見えない価値観に沿っているのではないか?

こういう風に掘っていくことでよく分からなくなるのを、前までは「つらい」って思ってたけど、今はそう考えること自体が楽しい。考えるべきことが増えるというか、日常生活で常に考えて納得できる答えを、色んな刺激を受けつつ自分の中で統合したいというのが私であって、あるとき気づいたんです。

あっ!実は、こういう「自由」な思考ができている状態こそが、私にとっての幸せなのかもね!と。

とにかく、問うてる時、自分は一番素直でいられる。心地がいい。
単にそれだけ。問うてるとき、私は自分が自由だと思うし、生きててよかったと思えるから。


そういう自由な思考を、日常で環境レベルから可能にするにはどういった場を作れるか、どういった価値観を持てればいいのかを考え、提示することが私のやりたいことだと。

私にとって、そして私の周りの大事な人にとって、そして今の世の中に違和感を感じるすべての人に対して、「生きやすい」世の中を、「価値観」や「概念」のレベルから作るところに私は自分の時間を使いたいと。

 

「概念」を根本から変えたり新しく生み出すには、問う営みに対して考える材料を適切に与えてくれるメディアだったり本だったりが重要だなと。
自分にとってもwinだし、他人に広げてもwinな情報媒体や、哲学する「場」を私は作りたいんだと思いました。


やっぱりね、人間の思考は自分がいる「場」とともにあると思うから。

私自身、自分がいる場所によって思考は変わるし、触発される感覚も変わる。これは当たり前のことなのかもしれないけど、でも、心地いい場所とそうでない場所があることは確実。どんなふうにしたら、心地いい「自由な」場ができるのか。それは意図的に作ることは可能なのか?可能なら具体的に何?どう?って言うこと知りたいし、研究もしたい。

物理的(建築とか、自然の有無とか)、心理的(集団とか周りの人々の存在と自己意識とか)、それ以前に商業的に形作られてるイメージや意識とか、自分で選べるかとか自分の裁量があるかとか、いろんなことが考えられる。

人は自分それぞれの快い「場」を持っているのは確実だと思うけど日常生活の中で快くない場に遭遇して、そこで苦しい思いをすることもある。
そんな、日常にある苦しい場がなぜ苦しいのかその要因を理解し、それを苦しくない場にするにはどうしたら良いのか。そこには、哲学の「場にある価値観や概念や言葉の無意識な強い力を問うことを通じて気づかせ、新たな視点でともに場を認識するという、強い営み」が、本当に肝なものだと思うし、哲学はいまの世の中では、そう言うところにこそ、使われるべきだし、実際すごい力を発揮できると信じている。

 

この夢を実現するには、やっぱり大学院で問いのやり方を訓練したいし、言語を論理的に組み立てる能力を訓練したいし、自分の主張を多くの人に分かりやすく伝える伝達スキルも磨きたい。だからその「夢」を実現するための第一歩として、私は大学院に行きます。

私の ”将来の夢” はまさにここで書いたことです。

 

2021.9.19追記

将来の夢とは、「私自身がどんな信念を持って、どんな行為を持ってそれを貫くのかという、まさに生き方」なのであって、決してカテゴリーなんかじゃないんだよね。

ただし、今の日本では、将来の夢をカテゴリーで答えさせるような教育システムがあるせいで、私たちは将来の夢とは何?と聞かれると、反射のレベルでカテゴリーで答えてしまう傾向があるよね。ただ、それは古いということに気がつくべきだと思うわ。

だから、私が人に将来について聞きたい時は、「将来の夢とは何ですか?」という問いの形じゃなくて、「あなたはどんな信念を持って、どんな行為をもってしてそれを実現したいですか?」あるいはもっと単純に「あなたはどう生きたいのですか?」と問うかな。

 

ここは、ことばを慎重に選ばないといけない。

ことばをけずることは簡単だけど、ここは削らずに、私はカテゴリーを聞きたいんじゃないということをわかってもらう問いの形を丁寧に出さないといけないと思う。

 

私の研究テーマの核

私の問題意識と研究テーマの核になりそうなことを書きたいと思います。

私、たまに時間が気が向くと夜にベランダに出てぼーっとする時間をとるんです。

特に今はとってもよい季節で、永遠にベランダにいたい気分にもなります笑

ぼーっとしているときって、意外と頭は柔軟に動くような気がして。実際、私の場合は、ベランダでぼーっとしていると考えが前に進むんです。

せわしない世の中で、このように自分だけの自分になれる場所を持つことってすごく大事だなと思います。

 

さて、話は変わりますが、さっそく私の問題意識と研究テーマの方向性がようやく定まってきたので書き留めておきたい。

正にこれが定まる状況は「雨降って地固まる」ともいうべきでした。

怒涛の思考ラッシュを経て、ああこれだ、と思えるテーマに収束しました。私の場合、テーマの探求は、自分の生きる意味そのものとも関わってくることのため、かなり真剣な語りになります。

 

(1)問題意識

今の時代、インターネットを起点にしたつながりがものすごい勢いで伸びている。ただ、そこで生まれるコミュニケーションはあくまで「起点」でしかないんだということ。お互いの物語を改変させるレベルの深いつながりは、時間と労力と誠実さを相手とともに積み重ねないと生まれないと思うし、覚悟のような強い「意志」も必要だと思う。
深い関係になれるような関係も、入り口は、インターネット上でも対面でもあり得るが、特にインターネット上の場合はよっぽど注意しないと、「深いつながりに入るために通過しないといけないプロセス」を、外部に任せてしまう可能性やそもそもされない可能性があると考える。そこの「一番労力を注ぎ込むべきところ」をいわば自動化してしまって、考えなくてもサラッと通り過ぎることができてしまうのが、現代のコンテンツやそれの元である資本主義的な価値観に人々が"慣れ"てしまっている状態なのではないかと考える。

 

(2)私の探求したいこと

私が探求したいのは、

・インターネットで飛ばされがちと思う「深いつながりに入るために通過しないといけないプロセス」とは一体何なのかを知りたい
→それを知ることで他人と自分の幸せな関係を考えられるのと、分り合いに近づける可能性

・人々が無意識のうちに持ちがちと思われる「資本主義的な価値観」とは一体実態としてどんな形であり(色んな物事に注目、大きなそして小さな物語に注目)それはどう獲得されてて(メディアとか、育った家庭や地域とかに注目して)、それにまみれている人にどう伝えたらいいのか、どんな代替案を代わりに提示できるのか(哲学対話とか物語の力を利用するとか、概念をていじするということ)

私が最後のところで啓蒙的な視点を言ったのは、私の考えの最前提として、「資本主義の価値観を自分自身に内面化してしまうと、非常に生きづらいよ」という価値観があるから。だから、私の価値観を全面に押し出していくなら、それは啓蒙という風にも見えるだろう。私はその価値観からスタートすることは、妥当であると考えている。

ただ、私はあくまで啓蒙を積極的に押し出したい訳ではない。もちろん、ある程度はそういう面もでてくるのかもしれないが、そうなったときにどんな反応があり、それはどんな影響力をもっているかは注視しないといけないと思う。

これから具体的に学び考えるべきことは、「一体資本主義の何が、どんな側面が具体的につらさにつながるのか」や「それは具体的にどんな社会現象として現れているのか」や「そこから抜けた世界のもつ豊かさをいかにして気づいていない人に"一つの選択肢"としてわかりやすく、強く伝えるにはどうしたら良いのか」だ。これらはまだ私には分からない。

だから私はそれを研究したい。なんとしても解き明かしたいし、この世に私の生がある限り、私は考える人でありたいし、問う人でもありたいし、常に自分の幸せと、自分と他人の幸せを本気で探求したい。

他人と分かり合いたいという、私の根源のモチベーションを原動力に、今の社会の生きづらさの部分にガチで向き合って、解きたい。私なりの答えを出したい。そして出した答えを、一つのでも大きな選択肢として外に提示したい。それを実行するために、行動から忠実に行いたい。これらの探求は、私の生きる意味だと考えるから。

最近考えること

「いろんな選択肢がネット空間の中にある世界」にいる私達だからこそ、
自分でその中から覚悟を持って強い意志で選びとっていくという、精神の働きこそが、人間に固有の強い強い特徴なんじゃないかと思っている。
ネットの世界は、人々にものを考えさせない世界であり、問いを立てる意思の営みすら無効化する世界でもあるけど、そういったものに没入していることは、おそらく人生という長期的な目線から見たら確実に当人にとって「よくはない」ことになると思う。
既定の世界に自分の意思だけが住んでいて、そこから身体は疎外されているわけだけど、そんな世界の住人にならざるを得ない私達ができることは、その中でも「頭を使って自分のよいと思う人生を、人生のいつどこでも選びとっていき、それを受け入れる覚悟をもつ」という精神の強い意思にあると信じる。こういう世界に生きていること自体は消しようのない事実だから。

 

普通に生きていれば、多様なものが「入ってくる」世界だ。
ただ、そうやって受動的に入ってきた情報や言説が、当の「私」と「私が選んだ大切な周りの人や社会」にとって、受け入れる価値があることなのかは、まさに選ばないといけない。

必要に応じて、それを「問うこと」が必要だし、それを「描写して世界の側に示す」ことも必要だ。
例えば、「多数あること」は真の意味での「多様性」を表しているとは限らない。それらを描写している言説は、時に暗黙の価値観や差別や前提にまみれている。
受動的に「多数」の情報が入ってくるとしても、それを「我ごと」として自分が引き受けるか否かは、自分自身の意思の働きを自覚的に行使することによって決めることだ。

ものごとの根幹を判断し、覚悟を持って強く受け入れていくのに必要な「意思」というものは、まさにトレーニングしないと鍛えられないというのが、私の思うところだ。

そしてそれは、「哲学的問いのやり方」だと思う。世間的にわかりやすくいうなら、

クリティカルシンキングということになるのかもしれない。
これは、単にビジネスの領域の話なのではなく、

<人生そのものを作る強い意思を磨くために、確実に学ばれるべき能力なのだ>

と、私は信じる。

このクリティカルシンキングを、「言説=ことば」の領域で鍛えたいというのが、私の意思だ。

なぜなら、ことばこそが、世界の側に溢れており、かつ人々を根本から規定しているようなものだからだ。
これは構造主義的な文脈でいいたいのではない。ことばの力が人を操るといった受動的な側面をいいたいのではなく、ある種のことばや言説の奴隷になっている状態を、ことばを批判的に問い直すという意思の力によって、能動的に世界を作るということがいいたいのである。人は言葉の奴隷にもなるし、それを問うことでそこから抜けることもできる。そこには、強い自分の意思が媒介している。

そんな意思の力を磨き、高めてくれる「問う」という営みを、私はことばや概念を扱う「哲学」の領域でトレーニングしてみたいと選んだのである。

自分の「見方」を持つということと読書との関係

物事は、主観的にキャッチされることで生き続けると思います。

客観的な知識として私達が学ぶものですら自分にとってそれがどんな意味を持つかが大事なわけです。


私はある時、社会科学と哲学の接地について〈客観的な説明〉がほしいと思いました。

なので先生に、それについて書かれている本を紹介してくれないかと頼みました。

すると先生は、「それは難しい注文だ。社会科学と哲学を線引くことについては考えるべきだ」といいつつも、本を紹介してくれました。

 

先生が教えてくれた本は、

山脇直司の「包括的社会哲学」という本です。

 

私は、〈客観的な答え〉が得られるだろうと期待を込めてずんずん読み進めていきました。

 

ただ、ある所で気づいてしまったのです。

この本の中の主張は、山脇さんという一研究者が考えた(もちろん議論に耐えうるような工夫はされている)一主張、一つの捉え方にすぎないということに。

ただ誤解しないで欲しいのは、このような興味深い接地について考えたものを山脇さんが世に出し、同じような関心を持つ読者に届けることが無意味ということを言いたいのではありません。

そう言う山脇さんの主張どうこうの話ではなく、

 

山脇さんという「他者の側」にある考えと、「自分自身」がどうそれに応答するかは、全く別で考えるべきということに気づき、純粋な意味での〈客観的な答え〉なんて、ないのではという答えに至った、ということです。

 

少し分かりづらいですね。

もう少し噛み砕くと、

「山脇さんの解釈は一つの解釈であって、それをどう読み、どう利用するかは圧倒的に私の側の問題である」ということ。

 

人は、「自分の外にある考え」を自分の中に入れる時、自分の解釈できる仕方でそれらをデフォルメしたり、もしくは自分のストーリー(興味関心・生き方・価値観など)にあうように意味づけをすると思います。

その「営み」自体は、外からどうこう言われるものでないと思います。人は自分なりの枠組みで世界をキャッチして、自分の人生を編んでいくことに幸せを見出す生き物だと思うからです。

 

私のこの人間観でいくと、
「社会科学と哲学の接地という問い」すら、最終的には、それを自分自身のストーリーの文脈の中にそれを位置付けた時、その問いが「自分」にとっていかなる意味を持つかということが肝なのである、となります。

つまり、いかなる本の中の主張も、客観的な公準として絶対崩せない岩なのではなく、それが個人の文脈の中に個人によって位置づけられた時、初めて「その個人にとって何かしらの意味を持つ宝石」となります。

本はそれは個人によってしなやかに捉え直されるしなやかなものだと思うのです。

 

このように、外のものを内に置いて解釈するという営みは、「知」にとって、必須だし、これができればかなり生きやすくなるんじゃないかと思ったりします。

なぜならそういう物事の捉え方でいくと、「〜あるべき」、「君の主張は〜だから間違ってる」などという主張が出来なくなるし、自分がそう言われても、ああこの人には私の主張はそう見えるんだなぁとしか思わないからです。むしろ人を尊重できるように自然となる気がします。

これがいいのか悪いのかは分からないけど、そういった価値観の奴隷になった世界の側に囚われなくなることは、良いことと言えるのではないでしょうか。