空’s diary

大学3年生。徒然なるままに。

「ルーマンの社会理論」馬場靖雄

 

 

ルーマンの社会理論」馬場靖雄

 

ルーマンの社会理論については、先月からずっとまとめたいと思いつつ、まとまった時間が取れずにここまで来てしまった。
この本は、私の「社会」に対する見方を根本から変えてくれたとともに、これから私が研究したいと思うことの幅と可能性を広げてくれた本であり、いままで自分の頭の中でごちゃっととしていた様々な学説をまるで一本の糸でピンとつなげるように整理してくれた、そんな本である。

一言でいえば、衝撃の一打的な本であった。まだ自分でも衝撃的過ぎて狐に包まれた気分で、感覚的にしかとらえられていない部分もあるのは事実だ。

ルーマンの新しさは、その再検討の試みが、いわゆる方法論やメタ理論としてではなく、理論内容と同じレベルで実質、現代社会論の一部として扱われている点である。

つまり、ルーマンの理論は、なにか特定のある時点の社会事象を説明するために上から恣意的に意図をもって付与されるものではなく、その社会事象自体の生成を語ることすら可能にする非常に広い意味での「論」ということだと私は解釈した。
つまり、その社会現象を、人の主観的な意図を入れて見るのではなく、人の主観からは独立した単なる動き(が次から次へと移り変わっていく)と見るということ。

 

第1章 複雑性

我々はまずある区別を選び取ることから始めねばならぬ。
我々が論じようとしているのは、「世界」としか呼べないような漠然といたものではなく、すでに周囲から区切られたもの。

・システムとは何かという問いはナンセンス!
<システム/環境>という区別は、観察者とシステムの間にではなく、対象の側にひかれている。→観察者が任意に書き込んだのではないため、その対象を見出す観察者自体も、その対象の特殊解として扱える。システムを物象的に扱う立場でいることは、自己をその中の一部として相対化する可能性を与えてくれる。

・複雑性の縮減によって<システム/環境>の差異は説明できない。しようとするとそもそも完全なものを想定することになり違う。すでに線はひかれているから!

 →この区別があるところに<選択的/完全>の区別を足すと、システムも環境も
 「こみいったもの」ではなく
 「複雑なもの」として立ち現れてくる。

・複雑性自体、</>の区別を背景に持つことで、自己言及的性質を持っている。

 

通常の理解とは異なって、「複雑性の縮減」は、システムと環境の差異の成立を説明しうるような根本概念ではない。すでにそこの区別がなされているところに複雑性概念が付与されたときにはじめて、複雑な事態がよりわずかな関係で再構成されることを語りうるようになる。

 

第2章 コミュニケーション

ルーマンにおいてコミュニケーションの概念は通常より幅広い!

<情報/伝達>+理解
この二つの次元の差異を観察しうるとき、そこにはコミュニケーションが発生している。この二者の差異を、次の前提として引き受けることを理解という。
つまり、理解とは、自我と他者との間に何かが共有されることを意味するわけではない。自分の側で件の差異が観察され引き受けられているときにはすでに、理解が生じている。

by  how?

DK(ダブルコンティジェンシー)…自我と他者の対峙

統一性としての社会的なものは、抹消不可能な差異の統一というパラドックスとしてしか登場しえない。

ではその差異はあるとして、その差異が統一されたというのはどういうとき?

コミュニケーションの統一性なるものは、「経時」を含んではじめて考えられる。自他の差異があることは変わらないが、「経時」によって二者間の不確定な円環が構造づけられ、その構造をもとに次のコミュニケーションも続く。
そんな一連の出来事を外から事後的視点でみると、二者の間に「社会的な」統一関係があるように見え、これを一般的にコミュニケーションの成立ととらえる人が多い。
コミュニケーションは、不確実なDKが規定されることによって成り立つ。その様子を外から見ると、複雑性が縮減されていると見える。

コミュニケーションが継続しているという事実の外側に、この理論の当否を判定しようとする基準を置いてはならない。なぜなら、この理論が明らかにしようとしているのは、コミュニケーションと認識できるものを支えているのは、ほかならぬコミュニケーションの継続にあるから。

 

コミュニケーションの成立と継続を一般化すると、
秩序(ある形式として単純化された状態=複雑性の縮減)は、もともと差異がある次元に偶発的な構造と時間の両方が働いたときに、形成されるものである。

だから、秩序には「固定的な根源」はない。秩序は、後続するコミュニケーションの前提とされているときに限り、固有値となる。


第3章 機能分化

機能分化とは?
<システム/環境>の前者の側で、再び<システム/環境>の区別がひかれていくこと。

機能分化社会とは?
全体社会のコミュニケーションが、機能に即して接続し、秩序を作る社会のことで、その秩序は、それの下にある「機能」が常に等価なものとの交換可能性に開かれているがゆえに、根本的に偶発的である。二分コードが維持される限り、振り分け基準が変化しても、システム自体は揺るがない。システムのシステムたるゆえんは、コミュニケーションの内容自体にあるのではなく、コード(の閉鎖性)にある。

ちなみにそこにおいける、
コミュニケーションは、単独の出来事としてではなく、そのシステム内で<情報/伝達>の差異として理解されるときや、複数システム間でも<情報/伝達>の差異として理解されるときのみに生じうる。
→つまりコミュニケーションは、過程の要素としてのみ要素なのである。

根本的に、システムがシステム自体として特定のコードを持つというアイデンティティを得るには、他のシステムとの相互作用(相互に意味を与え合う)が必要である。
なぜなら、システムは単独では、自己を規定しえないから。
こうなってしまうのも、機能分化社会ゆえの不確定性(確固たる固有がない)が背景にある。

規定因となる契機は、当該システムにとって常に「異質」 でないといけない。なぜなら一体化してしまうと、結局全体として自己完結的になってしまい、再び自分のなかに規定因を求めることになり、堂々巡りしちゃうから。

この堂々巡りになっていないかを確認するには、接合する際にちゃんとずれが生じているか(一体化しちゃってないか)確認する。

 

二重の全体社会
①各システム内部のコードを通して捉えられた全体社会。
②絶対的な固定の全体社会なるものがあるのではない。各システム同士の「接合」と「衝突」がおこり、そこで第三の値(棄却値)が形成されるそのできごとの総体としての全体社会。<行為という目に見える形で実践される全体社会/「と」によって張り合わせられる差し示される全体社会>という消しえない差異が見える。

 

喜劇的批判としての社会学
自己の言説が結果として他の視点によって棄却されることを見越して、しかしそれを目的とすることなく分析を進めるということ。
社会学が他と異なるのは、社会学はこのようにして投機が失敗することそのものによって、自己を確証するという点。
システムは偶発的契機によって失敗されうるということをちゃんと示すことが、ルーマンが掲げる社会学的啓蒙の内実。

喜劇的批判はオートポイエティックである。
よって社会学もオートポイエティックでありうる。

 

ルーマンから学んだこと
・引くべきでないこところとか、引いても意味ないところとか、引くことで誤解を生むことがあることを教えてくれた。

・人は自分の恣意的な視線を持ち込みがちなので注意するべきこと。

 

5.22 追記

ルーマンの考えは、人間の自己ー他者ー世界了解という根源的な契機を軽視して包括性に向かっていて、この理論は社会哲学として普遍的説得力を持つとはいえないという意見も。