空’s diary

大学3年生。徒然なるままに。

書き散らし

制度として固まると言うことが、必ずしも共同体的な閉じられたものを意味しないと言うこともあり得ると言うのはめちゃめちゃ面白いなと思う。
もちろんお互いの間で、葛藤や衝突は内的にあるけれどもそれが良い方向に結びつく時と悪い方向に結びつく時がある。良い方向に結びつく時、個人は他者に対して倫理的に開いていると言うことがあると思う。いわゆる偽りのない状態と言うものであり、現代社会のビジネスや市場モラル的なものとは正反対の態度であると思う。そのような態度の下で他者と葛藤がありながらも関わり合う事を続けることによって、共同体的に閉じられていないけれども制度としては安定した集まりと言うものが出来上がるのだと思う。
いわばこの形はコモンズとも言えるものであって、そこにおいては各人の意見が共通の目標のもと集約され認められたり却下されたりしながらも、あくまで各人の人格は全肯定されており安心がある。
このような形をまさに形式として持っているのが、哲学対話だと思う。だからこそ哲学対話的なものはこれからの時代において、人々の関わり合いにおいて大事なものと思うが、最初から哲学対話的なものを目指して個人がそこに向かって、初めから完璧な倫理的人格持つことを要求されると言うのは違うと思う。倫理的な性格すなわち他者と自分に対する責任を自分が持続して持ち続けると言う事は、継続的に相手と関わるプロセスの中で育まれていくものであって、初めから完成された倫理的な人格と言うものを持って相手と向き合うという事は、少し的外れなことだと思う。だからこそ、哲学や倫理学の議論において、倫理的な主体とは何かと問うときは、完成された方意味での人格と言うものを議論するべきなのではなく、むしろ他者との相互の関わりの中で、今はコモンズのような中で継続して育まれるべきである、人格と言うものについて、開かれた柔軟なものを想定して議論するべきである。すなわち関わる他者に応じて柔軟に変わるけれども、しっかりとそこにおいて生じる様々なバリエーションの責任や倫理を引き受ける自己と言うものがいかなるものであり、いかにしてそんな自己の名を形成することができるのかを、議論するべきなのだと思う。
だから決して、私にとって部活の時との関係と言うものは、単なる世間的に一般的にイメージされる馴れ合いのようなものではなく、非常にコモンズなまとまりを持った集団なんだと思う。

コモンズの形成と言うことに対して新型コロナウィルスがもたらした影響とは、直接的なものと言うよりは、むしろ個人の分離を促進するような近代社会に対してカンフル剤として働いたように思う。だから、別に新型コロナがなくても、人々の間の物理的な分離は進んだだろうけど、コロナがあったことでそれが促進されて徹底的な形で行われたのだと思う。
いわば、ゆっくりと共同体的なものが解体されていくはずだったところで、凄いスピードで解体される事となってしまっていると言うことだと思う。コロナによって直接的にコモンズの形が変わったと言うよりは、もともとそのように変わるはずだったものがコロナによって促進されていると言うふうに捉えるのが正しいんじゃないかなと思う。コロナはそういう意味では、コモンズが変わるための必要条件なのではなく十分条件と言うふうに言えるのではないか。いわば他に代打もあったと言うこと。

哲学対話についても一言加えておくと、私は哲学対話と言う1回きりの営み自体に興味があると言うのではない。もちろんそれを一回行うことによってその場における人々が新しい形で作用して新しい知見がそれぞれに得られると言うメリットもあると言うのは変わりないけれども、あくまでそのような新しく生み出されるものを楽しむということが私にとって哲学対話の持つ意味なのではなく、哲学対話の中で可能にされる可能性のある倫理的な空間と言うものに興味があるのだ。だから一回きりの哲学対話を扱うそのような面でプロになるのではなく、継続的な他者との間の責任だったり倫理と言うものを空間の中で実現させていくために、哲学対話のような対話の形と言うものは大いに参考にされるべきものだと思っているということ。


これからの時代の道徳や倫理と言うものが議論されるべき要点は、共同体的に閉じられていないけれども人と人との温かい集まりと言うものが継続的に経験されてその過程の中で獲得される何か(例えば責任や倫理)といったものを自分事として、他者と共に生きる世界の中で引き受けているような自己と言うものがいかにして形成されるのか、そしてその内実はいかなるもので、集まりにいかに関わるのか、そしてらどう関わるのが幸福なのかということだと思う。

 

そもそも他人への向き合い方についてだが、他人を分からなくて怖いものと捉えて、その他人から自分を守るために自分の殻の中に入ってしまうのか、それとも知らない深い部分がある他人と言うものを「面白いもの」と捉えて開いた自分で向き合うかここにかなり根本的で究極的な差があるんだと思う。今の人々の状況よくわからないが、かなり多くの人が、前者の状況に陥ってしまっているのではないかと思う。そうさせてしまう背景としては、自分が武装することで上にのし上がっていくと言う心理テクニック的なもしくはビジネス的なもしくは市場モラル的な価値観と言うものを持つ者ができる奴と言うイメージが付与され、世の中に広がってきてしまっていると言う背景があるのではないか。その背景はかなり古臭いものだとみんなが実感するべきだと思う。まず多くの人の側で前者から後者の人間観への転換が起こらない限りは、大きな社会のレベルで、後者の人間であることで初めて可能になる倫理的に開かれた自己と言うものを実現する事はかなり難しいのではないかと思う。