空’s diary

大学3年生。徒然なるままに。

バズりと哲学


あるツイートがバズっていた。

ツイートは、

「今の時代、対話が大事である。それといわば対比的な立ち位置にある論破は、生産的ではないし、前提としている思考ゆえに危ないものだ」

という趣旨の主張をしていたと私は解釈した。


ただ、これにいいねした人たちは、発言者自身の問題意識について知っているわけでもなければ、そのツイートの立脚している議論背景を知っているわけでもない。
単に、論破が幅を利かせちゃっている世の中に対して「何となくいやだな」と思っている人たちが、200字という短い言葉を単に記号として消費しただけだ。

今回のツイートだって、発言者の意図に反して、論破vs対話という単純図式のみが切り取られ、高速で消費されてしまっている。

本人の意図しないところで、発言者と、仮に想定される発言者に反対する者が、ボクシングのフィールド上で殴り合う図式が作り上げられてしまう。そんなもの、実在しないのに。

そもそも、やっぱ批判に対してすぐに「バトル」や「勝ち負け」を連想してしまうのも、資本主義に毒されているわけだが、そういった二元論的・単略的な見方が、Twitter上の群衆の側にあるんだと思う。

 

正直、高速で消費される200字の言葉で何かを真の意味で伝えることって、不可能なんじゃないかと思う。

哲学のゆっくりとした思索に立脚した「言葉」を、世の中に伝えていくには、同じくゆっくりとしたやり方を取るべきなんじゃないかと思った。つまり、ゆっくり形作られたものは、ゆっくりとしか本当の意味で理解されないのではないかと思う。

 

Twitterと哲学は、その背後に控えている「人の意見と向き合う姿勢」の点でかなり相違がある。ゆえに、相性が悪い。

 

ただ、現代の世の中で大勢の人に何かを伝えようと思ったら、Twitterは大きな手段だ。

ただ、Twitter上の人々は、自分が知っていること、自分の立場を強化してくれるものにいいねするだけで、そこにあるのは、冷笑的とも言える「だよね〜」的な軽いノリだ。時には、「よく言ってくれた〜!」的な強い感銘もあるのかもしれないけど、結局それは自分の、というより社会一般の意識に同調した形なんだと思う。個人と社会ってやっぱりどっちがどうって難しいんだけどね。

 

こんな性格を持つTwitterで、哲学の知を本当の意味で広めるのは、いくら言葉を工夫しても難しいのではないかと考えたりした。
ただ、発言者のツイートは、そんなに大きな批判にさらされていないのが不思議だ。発言者の文章が妥当な書かれ方だからか?

 

というかそもそも、人々が、論破のパフォーマンス性に気づき始めてる面もあると仮定することもできる。

 

TwitterTwitter上の人々像って、考えてみるとなかなか面白いな。

・数の多さゆえの暴力性や権力

・記号として消費されること

・背景の文脈を欠いていること

・自分の既存の価値観に合致するものだけ選んでいれば満足すること

Twitterに向き合う姿勢自体がシニカルで軽く、真の意味での現実と結びついていないこと

・「当たり前」のことをちょっと工夫して言ってくれるツイートが好まれる

・スワイプしたら次に切り替わるという経験の温床

 

これらが、バズりを通して私が見えたTwitterの特徴である〜