空’s diary

大学3年生。徒然なるままに。

最近考えること

「いろんな選択肢がネット空間の中にある世界」にいる私達だからこそ、
自分でその中から覚悟を持って強い意志で選びとっていくという、精神の働きこそが、人間に固有の強い強い特徴なんじゃないかと思っている。
ネットの世界は、人々にものを考えさせない世界であり、問いを立てる意思の営みすら無効化する世界でもあるけど、そういったものに没入していることは、おそらく人生という長期的な目線から見たら確実に当人にとって「よくはない」ことになると思う。
既定の世界に自分の意思だけが住んでいて、そこから身体は疎外されているわけだけど、そんな世界の住人にならざるを得ない私達ができることは、その中でも「頭を使って自分のよいと思う人生を、人生のいつどこでも選びとっていき、それを受け入れる覚悟をもつ」という精神の強い意思にあると信じる。こういう世界に生きていること自体は消しようのない事実だから。

 

普通に生きていれば、多様なものが「入ってくる」世界だ。
ただ、そうやって受動的に入ってきた情報や言説が、当の「私」と「私が選んだ大切な周りの人や社会」にとって、受け入れる価値があることなのかは、まさに選ばないといけない。

必要に応じて、それを「問うこと」が必要だし、それを「描写して世界の側に示す」ことも必要だ。
例えば、「多数あること」は真の意味での「多様性」を表しているとは限らない。それらを描写している言説は、時に暗黙の価値観や差別や前提にまみれている。
受動的に「多数」の情報が入ってくるとしても、それを「我ごと」として自分が引き受けるか否かは、自分自身の意思の働きを自覚的に行使することによって決めることだ。

ものごとの根幹を判断し、覚悟を持って強く受け入れていくのに必要な「意思」というものは、まさにトレーニングしないと鍛えられないというのが、私の思うところだ。

そしてそれは、「哲学的問いのやり方」だと思う。世間的にわかりやすくいうなら、

クリティカルシンキングということになるのかもしれない。
これは、単にビジネスの領域の話なのではなく、

<人生そのものを作る強い意思を磨くために、確実に学ばれるべき能力なのだ>

と、私は信じる。

このクリティカルシンキングを、「言説=ことば」の領域で鍛えたいというのが、私の意思だ。

なぜなら、ことばこそが、世界の側に溢れており、かつ人々を根本から規定しているようなものだからだ。
これは構造主義的な文脈でいいたいのではない。ことばの力が人を操るといった受動的な側面をいいたいのではなく、ある種のことばや言説の奴隷になっている状態を、ことばを批判的に問い直すという意思の力によって、能動的に世界を作るということがいいたいのである。人は言葉の奴隷にもなるし、それを問うことでそこから抜けることもできる。そこには、強い自分の意思が媒介している。

そんな意思の力を磨き、高めてくれる「問う」という営みを、私はことばや概念を扱う「哲学」の領域でトレーニングしてみたいと選んだのである。