空’s diary

大学3年生。徒然なるままに。

将来の夢、という言葉が正しいのか分からないけれど

「将来の夢は何ですか」

小学校のころから大人に聞かれ続け、進路を決める節目節目に考えさせられたこの問い。

この問いは分析してみるとなかなか面白い。
この問いの前提には、

・人は何かしら確定された将来像を描くものだ
・人は人生過程をその像に向かって一直線に向かうものだ
・夢は具体的な業種で表されるものだ

などが控えている。
ちょっと前提を問うてみただけでこれだ。

言い換えれば、これらの前提って
「物事には正解があって、それに向かって真っすぐコースを走り続ければ必ずたどり着ける」という、成果主義的な価値観が元にあるように思える。

更に言うと「人々は一定の時期になったら労働者という形で社会の中に組み込まれ、特定の職業のラベルを背負って社会の中立つべきだ」という資本主義を根底に据えた価値観から、この問いは出てくるとように思える。

 

こう掘っていくと、なんだか「将来の夢は何ですか」という問いに限らず、
「将来の幸せのために多少今を犠牲にするのはやむを得ない」といった考えなども、なんだか怪しく思えてくる。

この考えだって、「幸せは塔の頂点にあるものだから、登る過程が苦役でも耐えるべきなんだ」という思考が隠れている。

 

私自身も、「問う」という思考方法を学び始めるまでは、上のような言説の背後にある価値観まで無意識に背負ってしまっていた。

そしてそれに無意識のうちに規定され、正直とっても苦しかった。
たぶんこの苦しさを抱えている人は世の中でも少なくないんじゃないかと思う。
今までの私は、その苦しさの正体が分からなかったし、そこから抜け出すすべも知らなかった。ただ、何か生きづらいなという感覚だけがあった。

 

ただ、最近になって、哲学と運命的な仕方で出会う機会があって、「問う」ということの計り知れない大きな力を知ることになったわけです。

今大学3年ということもあって、将来の生き方について真剣に考えるようになる時期ですね。同年代の子たちと一緒になって、ああ、就活か…なんてぼんやりと思っていたわけです。

ある時が来たら就活サイトに登録して、なすがままに自分の将来が決まってしまうのか… 私はなぜかそれがすごく怖いことだと思って。だから真剣に考え始めたんです。

 

そもそも、幸せに生きたいと思うのはなぜだろうか。「幸せ」の内実は私にとって何を意味しているのだろうか。そもそも、幸せは直線的に目指していって到達できる種のものなのだろうか。幸せという頂点があると想定すること自体、今の時代の見えない価値観に沿っているのではないか?

こういう風に掘っていくことでよく分からなくなるのを、前までは「つらい」って思ってたけど、今はそう考えること自体が楽しい。考えるべきことが増えるというか、日常生活で常に考えて納得できる答えを、色んな刺激を受けつつ自分の中で統合したいというのが私であって、あるとき気づいたんです。

あっ!実は、こういう「自由」な思考ができている状態こそが、私にとっての幸せなのかもね!と。

とにかく、問うてる時、自分は一番素直でいられる。心地がいい。
単にそれだけ。問うてるとき、私は自分が自由だと思うし、生きててよかったと思えるから。


そういう自由な思考を、日常で環境レベルから可能にするにはどういった場を作れるか、どういった価値観を持てればいいのかを考え、提示することが私のやりたいことだと。

私にとって、そして私の周りの大事な人にとって、そして今の世の中に違和感を感じるすべての人に対して、「生きやすい」世の中を、「価値観」や「概念」のレベルから作るところに私は自分の時間を使いたいと。

 

「概念」を根本から変えたり新しく生み出すには、問う営みに対して考える材料を適切に与えてくれるメディアだったり本だったりが重要だなと。
自分にとってもwinだし、他人に広げてもwinな情報媒体や、哲学する「場」を私は作りたいんだと思いました。


やっぱりね、人間の思考は自分がいる「場」とともにあると思うから。

私自身、自分がいる場所によって思考は変わるし、触発される感覚も変わる。これは当たり前のことなのかもしれないけど、でも、心地いい場所とそうでない場所があることは確実。どんなふうにしたら、心地いい「自由な」場ができるのか。それは意図的に作ることは可能なのか?可能なら具体的に何?どう?って言うこと知りたいし、研究もしたい。

物理的(建築とか、自然の有無とか)、心理的(集団とか周りの人々の存在と自己意識とか)、それ以前に商業的に形作られてるイメージや意識とか、自分で選べるかとか自分の裁量があるかとか、いろんなことが考えられる。

人は自分それぞれの快い「場」を持っているのは確実だと思うけど日常生活の中で快くない場に遭遇して、そこで苦しい思いをすることもある。
そんな、日常にある苦しい場がなぜ苦しいのかその要因を理解し、それを苦しくない場にするにはどうしたら良いのか。そこには、哲学の「場にある価値観や概念や言葉の無意識な強い力を問うことを通じて気づかせ、新たな視点でともに場を認識するという、強い営み」が、本当に肝なものだと思うし、哲学はいまの世の中では、そう言うところにこそ、使われるべきだし、実際すごい力を発揮できると信じている。

 

この夢を実現するには、やっぱり大学院で問いのやり方を訓練したいし、言語を論理的に組み立てる能力を訓練したいし、自分の主張を多くの人に分かりやすく伝える伝達スキルも磨きたい。だからその「夢」を実現するための第一歩として、私は大学院に行きます。

私の ”将来の夢” はまさにここで書いたことです。

 

2021.9.19追記

将来の夢とは、「私自身がどんな信念を持って、どんな行為を持ってそれを貫くのかという、まさに生き方」なのであって、決してカテゴリーなんかじゃないんだよね。

ただし、今の日本では、将来の夢をカテゴリーで答えさせるような教育システムがあるせいで、私たちは将来の夢とは何?と聞かれると、反射のレベルでカテゴリーで答えてしまう傾向があるよね。ただ、それは古いということに気がつくべきだと思うわ。

だから、私が人に将来について聞きたい時は、「将来の夢とは何ですか?」という問いの形じゃなくて、「あなたはどんな信念を持って、どんな行為をもってしてそれを実現したいですか?」あるいはもっと単純に「あなたはどう生きたいのですか?」と問うかな。

 

ここは、ことばを慎重に選ばないといけない。

ことばをけずることは簡単だけど、ここは削らずに、私はカテゴリーを聞きたいんじゃないということをわかってもらう問いの形を丁寧に出さないといけないと思う。