自分の「見方」を持つということと読書との関係
物事は、主観的にキャッチされることで生き続けると思います。
客観的な知識として私達が学ぶものですら自分にとってそれがどんな意味を持つかが大事なわけです。
私はある時、社会科学と哲学の接地について〈客観的な説明〉がほしいと思いました。
なので先生に、それについて書かれている本を紹介してくれないかと頼みました。
すると先生は、「それは難しい注文だ。社会科学と哲学を線引くことについては考えるべきだ」といいつつも、本を紹介してくれました。
先生が教えてくれた本は、
山脇直司の「包括的社会哲学」という本です。
私は、〈客観的な答え〉が得られるだろうと期待を込めてずんずん読み進めていきました。
ただ、ある所で気づいてしまったのです。
この本の中の主張は、山脇さんという一研究者が考えた(もちろん議論に耐えうるような工夫はされている)一主張、一つの捉え方にすぎないということに。
ただ誤解しないで欲しいのは、このような興味深い接地について考えたものを山脇さんが世に出し、同じような関心を持つ読者に届けることが無意味ということを言いたいのではありません。
そう言う山脇さんの主張どうこうの話ではなく、
山脇さんという「他者の側」にある考えと、「自分自身」がどうそれに応答するかは、全く別で考えるべきということに気づき、純粋な意味での〈客観的な答え〉なんて、ないのではという答えに至った、ということです。
少し分かりづらいですね。
もう少し噛み砕くと、
「山脇さんの解釈は一つの解釈であって、それをどう読み、どう利用するかは圧倒的に私の側の問題である」ということ。
人は、「自分の外にある考え」を自分の中に入れる時、自分の解釈できる仕方でそれらをデフォルメしたり、もしくは自分のストーリー(興味関心・生き方・価値観など)にあうように意味づけをすると思います。
その「営み」自体は、外からどうこう言われるものでないと思います。人は自分なりの枠組みで世界をキャッチして、自分の人生を編んでいくことに幸せを見出す生き物だと思うからです。
私のこの人間観でいくと、
「社会科学と哲学の接地という問い」すら、最終的には、それを自分自身のストーリーの文脈の中にそれを位置付けた時、その問いが「自分」にとっていかなる意味を持つかということが肝なのである、となります。
つまり、いかなる本の中の主張も、客観的な公準として絶対崩せない岩なのではなく、それが個人の文脈の中に個人によって位置づけられた時、初めて「その個人にとって何かしらの意味を持つ宝石」となります。
本はそれは個人によってしなやかに捉え直されるしなやかなものだと思うのです。
このように、外のものを内に置いて解釈するという営みは、「知」にとって、必須だし、これができればかなり生きやすくなるんじゃないかと思ったりします。
なぜならそういう物事の捉え方でいくと、「〜あるべき」、「君の主張は〜だから間違ってる」などという主張が出来なくなるし、自分がそう言われても、ああこの人には私の主張はそう見えるんだなぁとしか思わないからです。むしろ人を尊重できるように自然となる気がします。
これがいいのか悪いのかは分からないけど、そういった価値観の奴隷になった世界の側に囚われなくなることは、良いことと言えるのではないでしょうか。