空’s diary

大学3年生。徒然なるままに。

現代アート展「あなたの眼はわたしの島」

こんにちは。今回は、現代アートの展覧会の記録です。

京都国立近代美術館で開催されている

ピピロッティ・リストの「あなたの眼はわたしの島」

を見に行ってきました。

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この展覧会をまず一言で表すと、

美術館という「公的空間」において「私的空間」を他の鑑賞者(赤の他人)と一緒に過ごす工夫があったことで、鑑賞者は自身が無意識に持つ「公と私の境界線」の存在を可視化させられ、思わずハッとするような経験をすることができる展覧会。

1.美術館という公的空間を、徹底的に私的空間にする工夫

①海、森などの自然の心地よさを映像や音で表現している。

 現代アートでは、自然を題材にした作品はおいおいにして人々の本能的な恐怖心に訴えかけてくるものが多いが、彼女の作品はそうではない。恐怖を排除した良い部分だけを取り込んでいる。
自然というのは、むき出しのままだと本来は恐ろしいくて手に負えないものだけど、心地いい部分だけを切り取って作品にしているので、私たちはおそろしい自然から一旦距離を取って、安全な場所から安全な面の自然を見ることができる。ある作品で、海の中に映像でのまれていくと、なんだか不思議と自分が子供時代に戻ったみたいな感覚になった。「子供時代」という無垢で純粋なものを、海という自然の良い面を見ることで想起した自分自身の感覚もなかなか面白いと思った。

 

②ベッド・カーペット・クッション・ソファ・食卓など私的領域のものが作品の一部に

鑑賞者は置いてあるこれらの家具に自由にもたれかかったり、寝転がったりすることができる。まるで、うちの中でリラックスして作品を見ているような気分だ。
この工夫からは、私たちの一般的な「美術鑑賞」の態度(静かに・触らない・写真を撮らない…)が、いかに公的な規範として私たち自身の行動を規定しているかが明らかになる。彼女の作品は、こういった普段意識にすら上らない私たちの規範意識に気づかせてくれる。

 

③「性」という私的なものを、公的な場で見せるということ

「性」というテーマは、現代アートにとってはよくあるテーマだが、この展覧会は、何の文脈もなくただ単に性に関する作品を見せられるのではなく、海とか生命とか「原初」の中に浸る体験を鑑賞者にさせた後に性を見せる工夫があって、見せ方がうまいなと思った。
何だろう、私の場合、やっぱり普段の生活の中では「自分は女性」という規範をいろいろな場面で意識させられることが多いから、無意識に女性的な行動をしていてもそれに対して何も感じない、または話すのは恥ずかしいけど、美術館でしかも現代アートの中で性についての作品を見せられると、その無関心さや恥ずかしさはどこかへ消え去って、非常にオープンに性について考え受け入れることができる気がする。
わたしにとっては、アート空間にいること自体が、思考を柔軟にオープンにしてくれるのかもしれない。

 

2.個別の作品について

・アポロマートの壁

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安いものから高いものまで。個人の思い出が詰まったものから単なる一瞬の消費で終わってしまうものまで。そんな多様な意味合いを持ったものたちが、一様に平坦に並べられ、同色の光の元に置かれている状況。
個人の思い出が詰まっているようなものは、結局見ただけじゃそれらの持つ文脈やストーリーは分からない。そういうのは、持ち主(当事者)によって語られ、表現されないとわからない。(ここは社会のいろんな面で言える。)

つまり、文脈から切り離されたものを、単に見るだけでその背景を理解するのは不可能。そこに文脈や大事な意味づけがあるなら、それらは表現されないと伝わらないということを読み取った。

物事にはやっぱり意味づけがあるんだろうなって。そして、それらは語られて初めて他人と共有できる。そこの語りを可能にするのがやっぱ言語(もちろんそれ以外もあると思うけど非言語とか芸術とかのコミュニケーションとか)だと考えると、言語ってやっぱ大事だよね。他人と自分を繋ぐエッセンシャルなものだよねって思う。
こう、話さなくても察してくれるということが通用しないのは、私たち自身が「話さなくても分かってくれる人間関係」を超えた多数の他人とかかわらなければいけなくなっているからという時代背景もあるんだろうなと思う。

 

・アポロマートの床

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光の3つの丸。物事のアドホックさについてはっとさせられる。光がたまたまそこに当たっているから、丸ができてるわけで。いくらでも可変的に変わりうる…。
電気供給がなくなれば、作品としてすらなることができないし。

光と暗のコントラストって、美しいなと直感的に思うのはわたしだけだろうか。

光って、偶然的な相互作用を説明するのによいアナロジーになりそう。あ、でも光はもともと波長が決まっているという点で実際とは違うけど。干渉しあっても自身が変わらないという点で。

 

・愛撫する円卓

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食卓があっても、だれか赤の他人が座ってたら、座る気にならない。これって、食卓を囲うということが、いかに個人の私的領域の側にあるのかという、普段なら絶対に意識しないことを、食卓を囲うという行動の文化面を、気づかせてくれるね。社交としての食卓と、家族との食卓に対するイメージって全然違うんだなって実感。

というか、人って、「食卓を囲うという行動」によって、親密さへ入って行くのかもね。どっちが先か問題。どっちも先ではないか。行動によって思考が作られるし、思考によって行動も作られる。そこには経時とともに「経験」が織りなされていく。それは常に自分によって参照される。

 

・感傷的なサイドボード

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リビング(笑)でも、触っていい所とダメなところの微妙な緊張感がまたなんとも言えず、不思議というか。リビングという私的空間と、美術館という公的空間が綺麗にミックスした空間で私が感じたのは、これは適度に調整されたオアシスだなって感覚。頭はシャキッとするけど、無機質ではないというか。家とかオフィスの在り方的なものを考えさせられる。あと、南国の心地いい音楽がながれてるんだけど、やっぱ南国の綺麗な海、リゾートっていうステレオタイプを私自身抱いていることを実感させられました。

 

他もすべて魅力的だったのはもちろんなんですが、全部書いていたら書ききれない笑
私にとっては非常に思考が刺激されたよい展覧会でしたし、アートというものの奥深さにこれからもますますはまっていきそうです(笑)