空’s diary

大学3年生。徒然なるままに。

街中の自然が、魅力的に見える訳

なぜ、大規模な渓谷に行くよりも、街中にふとある小さな川べりや木陰に私は安心を感じるのだろうか。

わざわざ自然を体験するために能動的に自然を体験しに行くという意識があるといけないのだろうか。偶然性が大事なのか?

街中の場合、街の喧騒と小さな自然が隣り合っていることで、都会と自然の境界線がはっきりと表れてくる。そこにおいて、小さな自然は街の喧騒との境界線ゆえに、安らぎの面が相対的に強調されるのではないか。

つまり、都会の中の自然は、その木や川といった物体自体が私の側に自然の安らぎを想起させることで何か特別と感じさせてくるのではなく、「都会の中にある」という文脈ゆえに、都会との対比において強く「自然」を想起させるのではないか。

つまり、都会の中の自然は、純粋な「自然」としての魅力があるからではなく、「都会対自然」を無意識に意識させる文脈の中にあることで、より自然らしさが強調されていくのではないかと思うのだ。

 

これと同じ構造、つまり、

「対比されるもののそばにあることで、あるものの特徴がより際立って見えるということ」

って実生活でも身近にたくさんあると思う。
京都や奈良という町なんかまさにそうだと思う。古い歴史のあるものが並んでいると思ったら、こだわりのある新しいカフェがあったり、古いものと新しいものを積極的に融合していくイベントや施設、企業があったり、、、

人間はもしかしたら、
「自分がそうだと思っていたものをいい形で裏切られたとき」
「続く緊張の中で現れたふとした安心感」
「対極なものが融合し、その両者の間の行き来を自分で実体験できること」
「計画して出会うのではなく偶然出会う」
といったことに惹かれるんじゃなかろうか。

人間ってやっぱり、自分で自分しかできない経験をすることや、自分で自分の人生をコントロールしてることにワクワクを感じると思うから、そういう人間の内的な感覚とかを丁寧に分析し、現実に生かしていったものは、成功するだろうね。
そういうニッチな部分で人間を捉え、とらえた結果を使って、なにかよりよい生き方をより多くの人が感じられるようなものを生み出すこと(量的ではなくて質的な、、かな)、それが私のやりたいこと~

 

今回はライトな話題 笑

 

2022.01.17 追記 ↓

神の視点から鳥瞰した「地上の図がら」と、地に足つけた人間の視点からみた「風景」は違うという対比も参考になりそう。

後者の視点から眺めた「生活景であること」、これが街中の自然が魅力的に見える一つの理由なのかもしれない。