空’s diary

大学3年生。徒然なるままに。

温室育ちが、本当の教養とは何かの一端を掴めた気がする

私の性格、、自分の幸せに対しては貪欲だし感性でセンスのいいものをキャッチするのは得意なんだけど、そうやって自由にキャッチできる環境が当たり前だと思ってたんだ。

世の中の人は、もっと色々考えてる。私は、社会に対して心の底から疑問を抱いてきたことがなかったんだ。自分はそこにコミットしないでも今まで生きて来れてしまった側だから。

世の中にある仕事って、全部「この理不尽な世の中をどうにかしたい」「もっとここを変えたら社会は良くなる」っていうビジョンの元に成り立っている、ということに、本当の意味で気づいてしまった。

 

今まで私は、そういった「強い」思いで社会を見たことがなかったことに気づいてしまった。

だから、大学で社会学を勉強して社会学の概念は分かって理解はできても、「で?」となってしまう。その理論を使う先の具体的イメージが湧かないからだ。湧かせようとしたこともあまりない。実際にやってみることとなると、うーんでもそんなに大きな疑問を抱いたことないし、これは問題かどうかも分からんし…って結局尻込みしてしまう。自分の生き方とか大事にしたい価値観とかはあるんだけど、その価値観は、恵まれた環境で育ったからこそできてるもので。

社会改革をしていく「企業」と、「私」は根本の部分で「違ってしまっている」ということに気づいた。

だからといって、社会学の「研究」なら…というとそういう単純な話でもない。本当の意味で疑問を持って、なんとかそれを解決したいという「対象」が無い限り、うまくいかないと思う。研究なんて疑問をもつからするわけで。(一部研究者は、私が気づいたことに気づかないでやって来れてる人もいるんだろうがね、私は気づいちゃったからもう考えてしまうね)

 

 

結局私は、

「頭いい人たちの中で、頭いい人たちの生きやすい、快適な世界にいることが快適と心から感じる」様に育ってきたんだ、、

 

だから社会改革的視点も持ったことないし、今の環境にいたら持ちようがないのは当然と思う。

よって、必然的に本当の熱量を持って「社会」というものに向き合ったことがない。結局は温室にいるだけなんだ、温室育ち由来のことなんだろうな、この間まで異質な人と関わるのを避けてきた理由も。

だから、ビジネスのインターンとかで、アイデアを出してと言われても、当該対象に疑問を持って考えたことがない以上、他人事に過ぎないわけで、一生解決策なんて考えようともしないし、思いつきすらしなかった。

 

 

このような私でも、あらゆる人に先行していることもある。

・このことを本当の意味で気づけたこと。

・純粋な好奇心はある。新しく革新的なもの、違った角度から世の中を捉えることは「遊びのように」楽しめる。挑戦していける。(自分が経験したわけじゃないからそういう境遇を背負ってる人に熱量は負けるけど。)

・人をみる目。人がどんな人なのか、大体読み取れて、その人に合ったコミュニケーション取れることが多い。私、多分場数を積めば、コミュニケーションかなり優れていると思われる。今までやって来なかっただけで。もっとここ深く勉強しよう。

・これと思ったときの集中力

・全部遊びの様に「やりたいからやる」なんだよね。いつもやる動機の説明ができないのはそれが理由だ、笑 

深く裏打ちされた動機がないんだ、笑

→それでも今までうまくやって来れてしまったというのも、未だにレールに乗っているからなんだろうな。

 

このまま、レールにのり続けて行ったらどんな自分の生き方があるだろうか。

→きっと、それなりに頭のいい人達に囲まれて、遊びの様に自由な自分の好奇心に沿って、これやりたいあれやりたいとやれる仕事につかないと、おそらく潰れるだろう。多分このままいくと絶対潰れる。多様な人への寛容性がないから。理解できる素養がないから。(そこを理解できる様になるために人は学ぶのかもしれないね。教養って、多様な人や社会の問題に自分ごとのように向き合うことだなきっと笑) そしていずれかは、自分だけの分野もきっとニッチなところに見つけて、それなりに知名度も上がってくるだろう。そして仕事において、自分の人生においても良いバディーも見つけるに違いない。

でもどこかで本当に自分にとってユートピアで自由な人生を心の奥にそっと持ったまま、今を生き、稼ぎ、そこと現実との差を感じつつ生きるのだろう。そして色々工夫をしつつ、興味だけは多方面に広げて、仕事やら趣味やら、なんやかんやいろんなところに小さなコミュニティを持って、楽しく人生を編んでいくのだろう。

そして歳をとって体が動かなくなっても、頭脳系の思索は死ぬまで続けるだろう。老後は稼いだ金や大事な人たちとの繋がりを持ちつつ、自分の内的好奇心を満たすためだけに、長年夢見た自分だけのユートピアで生きるんだろう。

 

こう生きるなら、これからやるべきこと

・出来るだけ多様なバックグラウンドを持った他者とガチレベルで関わること。どんなことになろうともどんな感情を経験しようとも、自分の人生なんだから自分で受け取る。

・コミュニケーションの場数を踏む。その際、一回一回、丁寧に向き合う。傷ついてもいい。思い切りと好奇心あるんだからそれで飛び込め。

・色んなバックグラウンド持った人が、具体的にどんな課題を抱えて、それをいかにして乗り越えてきたのか、詳細な背景から知りたい。

知ることで、本当の意味での寛容になるんだろうなと思う。

 

うん、そしてね、

一番いいたいのがね、

今、何かを変えるべき時がきた音がする。

 

今後は、

・この温室育ちによる「物事に根本から疑問を抱かない」というのは私は問題だと思うから、それを自覚した上で、自分の心の成長のためにも一回揺さぶってみる大きな経験が必要だと思っている。

・それプラス、小さく、多様な人と関わるコミュニケーションを詰んでいくことが必要。

 

一方で、

・親がこの環境を与えてくれてきたことで、得られたもの、知れた世界線があることも事実。

今までの世界線で得てきたもの、限られているけどでも多様な人たち、考え方に刺激されて今まで自分自身が形成されていることも事実。

その事実自体は捨てる必要はないし、むしろその恵まれた環境にいてこそ、今自分は幸せなわけで。自分の知るこの自分にとっての幸せな世界を無条件に人に広げていくこと自体はちょっと考えないといけないとは思うけど、社会の中で明らかに自分と違う境遇にいるけど、幸せを願う人達がいるならば、その人たちの立場になって(ここ、最高難易度だと思う、本当に色々考えなくちゃいけない、卒論で考えてもいいかもね笑)、私が使える資源を使って、幸せを一緒に紡いでいくというのはあり。でも紡ぐと言っても、無条件に誰でもいいわけじゃないんだよね。。。これからまた上に書いたこと実践してったら変わってくるだろうか。

 

解決したいのか、伝えたいなのか、はたまたこれらはミックスなのか、、どの部分なら自分はやりたいのか、自分を生かせるのかは、とりあえずこれからやるべきことをこなしてから考えよう。

 

とりあえず、こういう方面のことやりたいというのに留めておいて、上に書いた、今実践すべきことをやってみてから色々また考えようと思う