空’s diary

大学3年生。徒然なるままに。

街中の自然が、魅力的に見える訳

なぜ、大規模な渓谷に行くよりも、街中にふとある小さな川べりや木陰に私は安心を感じるのだろうか。

わざわざ自然を体験するために能動的に自然を体験しに行くという意識があるといけないのだろうか。偶然性が大事なのか?

街中の場合、街の喧騒と小さな自然が隣り合っていることで、都会と自然の境界線がはっきりと表れてくる。そこにおいて、小さな自然は街の喧騒との境界線ゆえに、安らぎの面が相対的に強調されるのではないか。

つまり、都会の中の自然は、その木や川といった物体自体が私の側に自然の安らぎを想起させることで何か特別と感じさせてくるのではなく、「都会の中にある」という文脈ゆえに、都会との対比において強く「自然」を想起させるのではないか。

つまり、都会の中の自然は、純粋な「自然」としての魅力があるからではなく、「都会対自然」を無意識に意識させる文脈の中にあることで、より自然らしさが強調されていくのではないかと思うのだ。

 

これと同じ構造、つまり、

「対比されるもののそばにあることで、あるものの特徴がより際立って見えるということ」

って実生活でも身近にたくさんあると思う。
京都や奈良という町なんかまさにそうだと思う。古い歴史のあるものが並んでいると思ったら、こだわりのある新しいカフェがあったり、古いものと新しいものを積極的に融合していくイベントや施設、企業があったり、、、

人間はもしかしたら、
「自分がそうだと思っていたものをいい形で裏切られたとき」
「続く緊張の中で現れたふとした安心感」
「対極なものが融合し、その両者の間の行き来を自分で実体験できること」
「計画して出会うのではなく偶然出会う」
といったことに惹かれるんじゃなかろうか。

人間ってやっぱり、自分で自分しかできない経験をすることや、自分で自分の人生をコントロールしてることにワクワクを感じると思うから、そういう人間の内的な感覚とかを丁寧に分析し、現実に生かしていったものは、成功するだろうね。
そういうニッチな部分で人間を捉え、とらえた結果を使って、なにかよりよい生き方をより多くの人が感じられるようなものを生み出すこと(量的ではなくて質的な、、かな)、それが私のやりたいこと~

 

今回はライトな話題 笑

 

2022.01.17 追記 ↓

神の視点から鳥瞰した「地上の図がら」と、地に足つけた人間の視点からみた「風景」は違うという対比も参考になりそう。

後者の視点から眺めた「生活景であること」、これが街中の自然が魅力的に見える一つの理由なのかもしれない。

 

 

 

 

 

内向型人間

こんなテーマで書かなくても、私の文章を読めば私が内向型人間ってことは分かるって、、ね笑

基本的には、家で1人で自分の部屋にこもって自分の好きなことを考えて自分の好きな本を読んで自分の好きなことに想像巡らしている時間が1番幸せなんです。誰にも何にも何の予定にも紛らわされずに自由に自分自身の世界の中に没頭する時間が1番幸せなんです。

でもこれは、ただ単純に孤独が好きっていうことを意味するのではないんです。

私が好きなのは、自分自身で必要な時に必要な分だけとれる孤独。つまり、自分でコントロールしてとれる孤独の時間が必要なんです。

孤独が好きなら人と交流するのが嫌いって多くの人は思うのかもしれないけど、それは違う。

そもそも孤独と人との交流が好きかどうかに、相関関係があるの?

少なくとも私にとって人間関係はとっても重要。良い人間関係は、人生を豊かにしてくれ、自分自身が自分らしくいるのに必要不可欠だと思うからだ。

私が大切にしたい人間関係は、具体的に言うと、

一、自分にとって安心できて、一緒にいると自分自身を好きになれる人

一、自分の能力・可能性に気づかせてくれてモチベーションを上げてくれる人

一、自分の趣味や好みなどに、利害関係なく本気で向き合ってくれる人

一、自分に問題があった時に助けになるアイデアや人脈をくれる人

一、一瞬でエネルギーをあたえてくれる人

一、自分を全力で褒めてくれる人

一、自分が行きたい方向に導いてくれる人

一、自分の興味ある分野で自分の知らない情報を持っている人(本も含む)

 

こういう人間関係は、自分自身の幸せを守ろうとするのと同じくらい全力で守りたいし大切にしたいと思っています、

でもこうした関係に時間を割く分、それ以外の人間関係は、基本的にはそれに紛らわされないように、悩まされないようにしたいと思ってるので、たまにそれが態度に出てしまうと、あなたってドライなところあるよね、とか、好き嫌いがはっきりしてるねとか、独特な世界があるねとか、なかなか内を見せてくれないねっていわれてしまったりする笑

そこはまあ自分の気持ちに正直なことの裏返しだし、そう思ってしまうこと自体は変えられないんだからしょうがないんだけど笑

 

私は心を許した交友関係が多分かなり周りに比べて狭い方だけど、この付き合い方は、私にあった付き合い方だと思ってる。少ない分ちゃんと全力で納得して相手に向き合えるから、自分自身、彼らからの良い影響をダイレクトにポジティブに受けられるし、私も彼らに真っ直ぐに与えられる。

そして、彼らと交流している以外の時間は、自分自身と向き合って自分の世界にいる時間にする。

これが私の生き方だし、社会人になってもこのスタイルは貫きたいと思ってる。

まだ就活する気はないけど、世の中の仕組みを今のうちに見ておくという点では、ちょっと企業とか見に行ってもいいのかもしれない。普通に自分がまだ知らない世界だし、今のうちしか飛び込めないからねー。

 

「ルーマンの社会理論」馬場靖雄

 

 

ルーマンの社会理論」馬場靖雄

 

ルーマンの社会理論については、先月からずっとまとめたいと思いつつ、まとまった時間が取れずにここまで来てしまった。
この本は、私の「社会」に対する見方を根本から変えてくれたとともに、これから私が研究したいと思うことの幅と可能性を広げてくれた本であり、いままで自分の頭の中でごちゃっととしていた様々な学説をまるで一本の糸でピンとつなげるように整理してくれた、そんな本である。

一言でいえば、衝撃の一打的な本であった。まだ自分でも衝撃的過ぎて狐に包まれた気分で、感覚的にしかとらえられていない部分もあるのは事実だ。

ルーマンの新しさは、その再検討の試みが、いわゆる方法論やメタ理論としてではなく、理論内容と同じレベルで実質、現代社会論の一部として扱われている点である。

つまり、ルーマンの理論は、なにか特定のある時点の社会事象を説明するために上から恣意的に意図をもって付与されるものではなく、その社会事象自体の生成を語ることすら可能にする非常に広い意味での「論」ということだと私は解釈した。
つまり、その社会現象を、人の主観的な意図を入れて見るのではなく、人の主観からは独立した単なる動き(が次から次へと移り変わっていく)と見るということ。

 

第1章 複雑性

我々はまずある区別を選び取ることから始めねばならぬ。
我々が論じようとしているのは、「世界」としか呼べないような漠然といたものではなく、すでに周囲から区切られたもの。

・システムとは何かという問いはナンセンス!
<システム/環境>という区別は、観察者とシステムの間にではなく、対象の側にひかれている。→観察者が任意に書き込んだのではないため、その対象を見出す観察者自体も、その対象の特殊解として扱える。システムを物象的に扱う立場でいることは、自己をその中の一部として相対化する可能性を与えてくれる。

・複雑性の縮減によって<システム/環境>の差異は説明できない。しようとするとそもそも完全なものを想定することになり違う。すでに線はひかれているから!

 →この区別があるところに<選択的/完全>の区別を足すと、システムも環境も
 「こみいったもの」ではなく
 「複雑なもの」として立ち現れてくる。

・複雑性自体、</>の区別を背景に持つことで、自己言及的性質を持っている。

 

通常の理解とは異なって、「複雑性の縮減」は、システムと環境の差異の成立を説明しうるような根本概念ではない。すでにそこの区別がなされているところに複雑性概念が付与されたときにはじめて、複雑な事態がよりわずかな関係で再構成されることを語りうるようになる。

 

第2章 コミュニケーション

ルーマンにおいてコミュニケーションの概念は通常より幅広い!

<情報/伝達>+理解
この二つの次元の差異を観察しうるとき、そこにはコミュニケーションが発生している。この二者の差異を、次の前提として引き受けることを理解という。
つまり、理解とは、自我と他者との間に何かが共有されることを意味するわけではない。自分の側で件の差異が観察され引き受けられているときにはすでに、理解が生じている。

by  how?

DK(ダブルコンティジェンシー)…自我と他者の対峙

統一性としての社会的なものは、抹消不可能な差異の統一というパラドックスとしてしか登場しえない。

ではその差異はあるとして、その差異が統一されたというのはどういうとき?

コミュニケーションの統一性なるものは、「経時」を含んではじめて考えられる。自他の差異があることは変わらないが、「経時」によって二者間の不確定な円環が構造づけられ、その構造をもとに次のコミュニケーションも続く。
そんな一連の出来事を外から事後的視点でみると、二者の間に「社会的な」統一関係があるように見え、これを一般的にコミュニケーションの成立ととらえる人が多い。
コミュニケーションは、不確実なDKが規定されることによって成り立つ。その様子を外から見ると、複雑性が縮減されていると見える。

コミュニケーションが継続しているという事実の外側に、この理論の当否を判定しようとする基準を置いてはならない。なぜなら、この理論が明らかにしようとしているのは、コミュニケーションと認識できるものを支えているのは、ほかならぬコミュニケーションの継続にあるから。

 

コミュニケーションの成立と継続を一般化すると、
秩序(ある形式として単純化された状態=複雑性の縮減)は、もともと差異がある次元に偶発的な構造と時間の両方が働いたときに、形成されるものである。

だから、秩序には「固定的な根源」はない。秩序は、後続するコミュニケーションの前提とされているときに限り、固有値となる。


第3章 機能分化

機能分化とは?
<システム/環境>の前者の側で、再び<システム/環境>の区別がひかれていくこと。

機能分化社会とは?
全体社会のコミュニケーションが、機能に即して接続し、秩序を作る社会のことで、その秩序は、それの下にある「機能」が常に等価なものとの交換可能性に開かれているがゆえに、根本的に偶発的である。二分コードが維持される限り、振り分け基準が変化しても、システム自体は揺るがない。システムのシステムたるゆえんは、コミュニケーションの内容自体にあるのではなく、コード(の閉鎖性)にある。

ちなみにそこにおいける、
コミュニケーションは、単独の出来事としてではなく、そのシステム内で<情報/伝達>の差異として理解されるときや、複数システム間でも<情報/伝達>の差異として理解されるときのみに生じうる。
→つまりコミュニケーションは、過程の要素としてのみ要素なのである。

根本的に、システムがシステム自体として特定のコードを持つというアイデンティティを得るには、他のシステムとの相互作用(相互に意味を与え合う)が必要である。
なぜなら、システムは単独では、自己を規定しえないから。
こうなってしまうのも、機能分化社会ゆえの不確定性(確固たる固有がない)が背景にある。

規定因となる契機は、当該システムにとって常に「異質」 でないといけない。なぜなら一体化してしまうと、結局全体として自己完結的になってしまい、再び自分のなかに規定因を求めることになり、堂々巡りしちゃうから。

この堂々巡りになっていないかを確認するには、接合する際にちゃんとずれが生じているか(一体化しちゃってないか)確認する。

 

二重の全体社会
①各システム内部のコードを通して捉えられた全体社会。
②絶対的な固定の全体社会なるものがあるのではない。各システム同士の「接合」と「衝突」がおこり、そこで第三の値(棄却値)が形成されるそのできごとの総体としての全体社会。<行為という目に見える形で実践される全体社会/「と」によって張り合わせられる差し示される全体社会>という消しえない差異が見える。

 

喜劇的批判としての社会学
自己の言説が結果として他の視点によって棄却されることを見越して、しかしそれを目的とすることなく分析を進めるということ。
社会学が他と異なるのは、社会学はこのようにして投機が失敗することそのものによって、自己を確証するという点。
システムは偶発的契機によって失敗されうるということをちゃんと示すことが、ルーマンが掲げる社会学的啓蒙の内実。

喜劇的批判はオートポイエティックである。
よって社会学もオートポイエティックでありうる。

 

ルーマンから学んだこと
・引くべきでないこところとか、引いても意味ないところとか、引くことで誤解を生むことがあることを教えてくれた。

・人は自分の恣意的な視線を持ち込みがちなので注意するべきこと。

 

5.22 追記

ルーマンの考えは、人間の自己ー他者ー世界了解という根源的な契機を軽視して包括性に向かっていて、この理論は社会哲学として普遍的説得力を持つとはいえないという意見も。

自己分析って結局…

さて、私ももう3年生ということで、徐々に周りも就活を始める年に。

就活での自己分析、必要ですよね。

自己分析って、私今まで単に「自分自身」と向き合うことと思ってたんですけど、最近なんだかそう単純じゃない気がしてきました。

自己分析で問われているのは、完全な孤立した個としての自分とは何かってことではなくて、周りの人と相互作用した時、あなたはその相互作用にどう参加するタイプですか?逆にどんな作用だと、自分をうまく発揮できますか?またその作用が特定の場で行われる時、あなたの好きな場はどこですか?っていうように、社会の中でのあなたの位置について客観的にみれていますかということが問われている気がする。

この点に関してちょっと考えてみたい。

自己は、社会との相互作用の中で絶えず決まって行くものであり、その際の自己の位置づけ方は状況によるため相対的で偶然的だけど、そこから得たフィードバックで、〔自分〕たるものが自分の中で暫定的に納得できるものとして立ち現れてくる。

そう考えると、人は自分が身を置く環境によって、〔自分〕のイメージがいちいち変わるといえる。
このことを実践的に解釈して使うと、人は場面によっていろんな顔を使い分けることができると言えるし、逆に言えば、異なる複数の環境に身を置くことで、多面的で複合的な〔自分〕のイメージをもつことができるとも言える。


自己分析とは、いろんな環境での他人との関わりがあって初めてできるものだと思うのだ。

だから将来やりたいことが分からないと言うなら、まずはいろんな環境に身を置いてそこで人とかかわってみることが重要だし必須。
そこで自分が嫌と思うこと、好きなこと、自分が自分らしくいるための条件、自分にとって得意な方法、苦手な方法を見つけることで、自分にとってよりよい環境がわかるし、何より一番嬉しいのが、自分自身の深い理解は、日々頑張るためのプラスのモチベーションにもなる。

自分を自分が理解できないことは、日々を幸せに生きるのに決定的にマイナスになるし、多くの人はそこに不安を抱くのだと思う。

でも人はその不安への対処法を持っている。それが、コミュニティと関わると言うこと。
上で書いてきたように、人は複数の環境に身を置いて自分と他人を比較したり、相互作用してコミュニケーションすることで、〔自分〕が分かる。
自分が分かると言う感覚は、自己肯定感からくる幸せや、他人へ配慮することへの余裕を生み出してくれ、プラスに働く。
「自分による自分の理解は自分の幸福に繋がる」という感覚は人間である以上、多くの人が共通して持ってる感覚と言えるのではないか。人間が社会的動物といわれる所以もひとつここにあるのではないか。

自分の中だけで自分がどんな人かなんて決めようがないし、そういったいわば絶対的自己は、人とかかわる中で発揮される相対的自己を通してしか理解できないと思う。禅問答のように、(絶対的)自分とは何かなんて考えててもそれは永遠に分からない。

 

さて、ここまでが本論。

 

ここから派生して考えたいことが一つ。
フラフラしている不確定な自分を確定するために、多くの環境に身を置いても、どこか一つの環境に集中することができず逆にフラフラしてしまうということが起こるのではないか?という疑問が湧く。

きっとフラフラして一つのことに没入できない人って、「これでなくてもいい、他でも在り得た」という感覚を強く持っているか、ほかのコミュニティでの他人との相互作用の方が自分が確定される感覚があって、相対的にそっちと比べてこっちに集中できないってことじゃないかな。
こういう人って、実際好奇心旺盛で新しいものが好きな人が多い。だから「これ」というものを自分の中で納得して見つけられたら没入できる人が多い。

 

 

てか思ったけど、「なにか一つに決めてそれに没入する」って何かを極めていくうえでは必要な姿勢だと思うけど、いつまでもそれ一つこだわる必要はないというのも事実。例えば仕事などで自分には果たすべき使命があるんだという人がいるが、使命はそもそも、”ある一つの環境”での〔自己〕が果たすべきことにすぎないのではないか。

こんなことを言うと、冷めてるねという人もいるかもしれない。でも、”いかなる環境でも普遍の使命”なんて普通に生きていればなかなかないものだと思う。というか、自分が果たすべき使命のようなものは、自分が今を必死で生きていく中で、小さな目標を着実に達成していったり、自分で自分の人生に意味付けをしていって、ふとした時に人生を振り返ったときに、自分の人生の色として事後的に立ち現れてくるものであって、先天的なものでもなんでもないと思うというのが私の思うところ。

 

そう考えると、複数の選択肢がある中でよく生きていくのに一番私的にいい心構えだと思うのは、自分の今の成長に必要な環境には没入するけど、常に他の可能性もあることは頭に置いたうえで自分で自分の可能性を閉じてしまわないようにすることだと思う。自分の成長度合いに合わせて、自分が力を注ぎ込みたい環境はかえていくべきだと思うから。

なぜ戦争には「男」だけが行ったのか?「男らしさ」って?

今回はエッセー的な感じです。

 

戦争には男が行く。女は行かない。

この事実に今まで疑問を持ったことがあっただろうか。
中村江里の『戦争とトラウマ』・吉川弘文館 を読んで、この事実の背景には社会学的な背景があることに気づかされた。

男らしさの構築には、「男でないもの」が必要  という視点

これは、私たちが無意識のうちに行っている区別が思考の背景にあることを暗示している。

 

男と男でないものといった性別に関する「差異」は、人間が生物である以上消し得ない差異である。だからこそ、いろいろな社会現象を考える際に「ジェンダー」という視点からとらえることは、社会現象を多面的に捉えるためには必要なのだと実感した。
ジェンダーのように人が消し得ない「差異」を考慮することは、社会を見るうえでは不可欠であるのだ。

この、「男/男でないもの」が、単なる区別だということで終われば話は単純だが、実際社会の中でこのような両面の概念はある種の価値判断を伴って現れてこざるを得ない。人間というものは、自分が当事者として強く関わる事柄に関しては、主観的で自分にとって都合の良い価値観を主張するものだ。その価値観を持つに至るには、やはり自分の周りの社会から絶大な影響を受けている。

例えば、「男らしさ」が「男でないもの」に対して上であるという戦争期のような社会に生きていれば、「男/男でないもの」という区別は、社会の中では「男>男でないもの」という価値観となって立ち現れ、多くの人々がそれにそって行動し、その価値観は再生産されていく。いわばこの価値観が再生産されている背景には、社会と個人が一体となった円環があるのである。

このように、社会現象を見る際は、対象の「〇/〇」という区別自体と、その区別に付随する価値判断を、区別して考えることが必要なのだと思う。

前者の「区別自体」を捉えるのが、おそらく社会事象の経験的な帰納を行う理論研究にあたり、後者の「区別に付随する価値判断」を分析したり、その既存の価値観によって問題が起こっているならそれを解決するための新たな価値観を提示したりするのが実証研究なのだろう。
そしてこの両者の研究は切り離すことができず、相互が相互の研究では必要なのだろう。

 

社会学って非常に面白いね、やっぱり。
私は実証研究を利用した理論研究がやりたいかな。抽象的なものを感覚的に扱うのは得意だし、何か特定の利害が絡んだ価値判断を作り出すのって大変そうだから、、まだわからないけど。

アーティストとしての藤井風さんの魅力

最近私の中できてるアーティストがいる。

藤井風さんだ。

彼のことを認知したのは、10月か11月頃だった。以前からyoutubeで他の音楽動画を見ているとたびたび藤井風さんに言及するコメントがあり、認知はしていたものの、なんとなく食わず嫌いな感じで動画を見ることはなかった。

おそらく一番最初に聞いたのは「優しさ」だったと思う。
その時は特に何も意識しなかったように思う。

ただ、そこから知らず知らずのうちにあっという間に「沼」にはまってしまった。

 

一つ言えるのは、彼の曲に出会ってから、私は自分自身に対するマインドセットが大きく変わったということ。


彼の曲を通じて、人生というものの不確実性を肯定したうえで受け入れ前へ進んでいくことをいい意味で落ち着いて肯定できるようになった気がする。

例えば自分と他人って違うけど同じなんだっていう感覚とか、なんとなく今まで見てこなかったこととか、なんとなく不安に思うけど言葉にできなかったようなことに彼の歌はバシッと言葉をあてがってくれる。

 

そう彼は、現代という時代とか、その中で生きる我々とか、それこそ社会そのものの中にある「形にならないもの」に「形を与える」力を持っているアーティストなのだと思う。

だからこそ、多くの人が彼の曲に衝撃を受けるのではないか。私もone of themです。

 

彼の曲と歌詞を聴くことを通じて、自分と向き合い「自分が本当の意味で良く生きていくってどういうことなんだろう」ってことを自然と立ち止まって考えるようになる。いわば彼の曲をが媒介となって、自分自身と社会との接地を考えるようになる。

そういう点で、彼はとても優れた時代の寵児だと思うし、だからこそ、本当にファンな訳です。

 

いや、そこまで深く考えてアーティスト藤井風を好きになる人は少ないのだろうか笑

でもまあどんな理由であれ、彼のファンはそれぞれ風さんについて魅力を感じる部分があってファンでいると思うので。。

あくまで、私が彼を推す理由は上の理由によりますという、ひじょーに主観的なお話でした、、

 

今日はここら辺にしときます。

またいつか、個別の曲について書くこともあるかも👀

 

では〜

 

「正しく」自分を知ることの大切さ

「正しく」自分を知ることの大切さ。

まあ、4月から大学3年生になるということもあり、今後の自分の人生についてそろそろちゃんと向き合おうと思う今日この頃。

今の私は院に進むか、就職するか、はたまたほかの選択肢があるのか、考えることが増えた。でも自分のこれからの人生について考えるのって楽しいねと思う。

でも、楽しいと同時に、漠然とした不安を感じることもある。

どういう点でかというと、自分の人生が無限に対して開いていて、決まった既定の進路がないから、自分がどこに向かって強く歩んでいったらいいのか分からなくなることがあるっていう点。

これって、現代という時代に生きていれば多くの人が感じたことのある感情なんじゃないのかな。つまり、「自分が何者なのか」という答えのない問いだ。

私は今となっては、この問いは問うこと自体が不可能な問いだと思っている。
なぜかって?それは「確実に解のない問い」だと分かったから。
この問いは、禅問答で使用される分にはいいけど、実際に解が存在しようがないのだから、問う必要すらない。こう言うのは、私自身が問うことをあきらめたからでも、問うてる人を馬鹿にするためでもない。高校生のころからずっと問うて悩んだ結果、問うことが論理的にナンセンスで不可能だという結論に自分で至ったからだ。

かつて高校生のころは、この問いに振り回されて悩んだ。存分にね(笑)
悩んだ時期はつらかったけど、あの時間が無駄だったとは思わない。なぜならその時期がなければ、今の自分の考えの境地には至れなかったと思うから。

今はもうそこの峠は越えて、この問いを問うて自分探しの旅に出るくらいだったら、「この現実世界のどこに自分を位置付けていくか」という現実的で新たな問いを考える方向のほうが大事と思うのである。

ただ、この新たな問いを引き受けることは、自分で自分の人生に任意に地図を描くことを意味する。それは、自由でありワクワクすることでもあるが、でも自分自身と、自分に関わる他人に対する責任も伴うし、社会と自分との衝突のはざまで自分の思う通りに行かないことに面したときのつらさに悩む可能性も含んでいる。

そう、自由って、お花畑ではないからね~

 

題名につけたように「正しく」自分を知ることってすごく難しいと思う。
ただでさえ、多様な価値観があふれる世の中に生きていて、簡単にSNSを通じて他人の人生を知り得て、つまり自分がそれでいこうと思った「人生」と別の「人生」の可能性もたくさん提示されている中で、たった一回の人生で自分の生きていく方向を自分で選択していかないといけないって。

でも私はそんな人生ってすごく魅力的で刺激的でいいと思うわけ。

自分の価値観とか意志を忘れずにいることと、自分にとって大切な人間関係との良い関係を大切にすることと、時には偶然性に身をゆだねること。

上のことを、自分で受け入れていくことが、良く生きるってことなんじゃないかと最近思う。受け入れ方はライフステージによって変わるだろうけど。


高校生のころは、自分の力だけで生きていけると思ってたし(若気の至りやね笑)、自分にとって大切な人間関係も含めた人生設計の重要性なんて考えてなかった。でも大学に入っていろんな人と関わる中で、いかに良い人間関係が自分にとってプラスなのか実感したし、世の中自分の思うとおりには動かないことも知った。だからある程度社会の側を知って、自分をより生かせる場所で自分を実現することが大切なんだということに気づいた(笑) だから「社会を知る」って、よく生きていくためには必須だと思う。


よく自分のやりたいことと自分が向いていることは違うって言う人いるけど、たしかになって思う。ここの差を埋めることが幸せにつながるんだろうなと思うが、すぐにそんな天職みたいな職に就けるとも思ってない。そんな素敵な天職にたどり着くのもこれからの長い人生、いつになるかもわからない。そんな仕事に巡り合えるのを信じて楽しく自分らしく生きていきたいものですね。人生は一度きりしかないんだから。
人より自分が突出した性格上の特性をうまく生かしていけるフィールドを見つけることからまずはじめないと。ちなみに仕事で一番大事にしたい価値観は、今のところ、自分で考えたことを出してそれに対し適切なフィードバックがあることと、成長が見えることかねー。

どんな仕事につきたいか考えることって、必然的に自分がどんな人生を歩みたいかっていう問いとも直結するよね。

私はどんな人生を生きたいかと人に聞かれたら、常に自分と自分の大切な人の幸せを、自分の手で実現してきたと自信をもって言って死ねる人生と答える。
「自分の手で実現してきた」というのは、自分で自分の人生を着実に歩んでいる感覚。なんというかここにおける「自分」って概念って、すごく拡張してるようなイメージ。自分の力で実現したものだけじゃなくて、他人とか社会まで拡張してるようなイメージかな(笑)

人生における「幸せ」って人によって意味付けが違うから、もちろんそれは尊重されるべきだし、その実現が不当な理由によって制限されたらいけないと思うわけ。

ん、何か今書いてて思ったけど、私が社会学をやりたい理由って、やっぱり私自身の人間に対する考えとか、好きな思考プロセスと親和性があるからだし、社会をどう見たら新しい社会像が見えてきて、それが人々の現代における「漠然とした不安」とどうかかわっていて、人々の幸せのより良い実現方向を探っていけるか、ヒントは何かみたいなことを考えるところに自分も関わってきたい、そしてあわよくば自分がそれを考えることとかそこで人とかかわることを通じて、自分自身の成長とか、幸せを得れたら最高だなと思うからっていうのがあるのかもしれないな。
でも、これは方向性としてはいいけど、漠然としすぎてる(笑)
そんな都合よくは進まん気がするし。そこはまたおいおい考えよー。

 

ん~今日は大まじめな回になっちゃった(笑)
自分で自分に言い聞かせるように書いてるところもあるから、ぐちゃっとした文章かもしれんけど(笑)でもたまには、こう自分の考えを書き出して整理するのやってみても楽しいなと思ったのでした(笑)
今日は久々に何もない日でゆっくりかけてよかった。

ではまた!