空’s diary

大学3年生。徒然なるままに。

温室育ちが、本当の教養とは何かの一端を掴めた気がする

私の性格、、自分の幸せに対しては貪欲だし感性でセンスのいいものをキャッチするのは得意なんだけど、そうやって自由にキャッチできる環境が当たり前だと思ってたんだ。

世の中の人は、もっと色々考えてる。私は、社会に対して心の底から疑問を抱いてきたことがなかったんだ。自分はそこにコミットしないでも今まで生きて来れてしまった側だから。

世の中にある仕事って、全部「この理不尽な世の中をどうにかしたい」「もっとここを変えたら社会は良くなる」っていうビジョンの元に成り立っている、ということに、本当の意味で気づいてしまった。

 

今まで私は、そういった「強い」思いで社会を見たことがなかったことに気づいてしまった。

だから、大学で社会学を勉強して社会学の概念は分かって理解はできても、「で?」となってしまう。その理論を使う先の具体的イメージが湧かないからだ。湧かせようとしたこともあまりない。実際にやってみることとなると、うーんでもそんなに大きな疑問を抱いたことないし、これは問題かどうかも分からんし…って結局尻込みしてしまう。自分の生き方とか大事にしたい価値観とかはあるんだけど、その価値観は、恵まれた環境で育ったからこそできてるもので。

社会改革をしていく「企業」と、「私」は根本の部分で「違ってしまっている」ということに気づいた。

だからといって、社会学の「研究」なら…というとそういう単純な話でもない。本当の意味で疑問を持って、なんとかそれを解決したいという「対象」が無い限り、うまくいかないと思う。研究なんて疑問をもつからするわけで。(一部研究者は、私が気づいたことに気づかないでやって来れてる人もいるんだろうがね、私は気づいちゃったからもう考えてしまうね)

 

 

結局私は、

「頭いい人たちの中で、頭いい人たちの生きやすい、快適な世界にいることが快適と心から感じる」様に育ってきたんだ、、

 

だから社会改革的視点も持ったことないし、今の環境にいたら持ちようがないのは当然と思う。

よって、必然的に本当の熱量を持って「社会」というものに向き合ったことがない。結局は温室にいるだけなんだ、温室育ち由来のことなんだろうな、この間まで異質な人と関わるのを避けてきた理由も。

だから、ビジネスのインターンとかで、アイデアを出してと言われても、当該対象に疑問を持って考えたことがない以上、他人事に過ぎないわけで、一生解決策なんて考えようともしないし、思いつきすらしなかった。

 

 

このような私でも、あらゆる人に先行していることもある。

・このことを本当の意味で気づけたこと。

・純粋な好奇心はある。新しく革新的なもの、違った角度から世の中を捉えることは「遊びのように」楽しめる。挑戦していける。(自分が経験したわけじゃないからそういう境遇を背負ってる人に熱量は負けるけど。)

・人をみる目。人がどんな人なのか、大体読み取れて、その人に合ったコミュニケーション取れることが多い。私、多分場数を積めば、コミュニケーションかなり優れていると思われる。今までやって来なかっただけで。もっとここ深く勉強しよう。

・これと思ったときの集中力

・全部遊びの様に「やりたいからやる」なんだよね。いつもやる動機の説明ができないのはそれが理由だ、笑 

深く裏打ちされた動機がないんだ、笑

→それでも今までうまくやって来れてしまったというのも、未だにレールに乗っているからなんだろうな。

 

このまま、レールにのり続けて行ったらどんな自分の生き方があるだろうか。

→きっと、それなりに頭のいい人達に囲まれて、遊びの様に自由な自分の好奇心に沿って、これやりたいあれやりたいとやれる仕事につかないと、おそらく潰れるだろう。多分このままいくと絶対潰れる。多様な人への寛容性がないから。理解できる素養がないから。(そこを理解できる様になるために人は学ぶのかもしれないね。教養って、多様な人や社会の問題に自分ごとのように向き合うことだなきっと笑) そしていずれかは、自分だけの分野もきっとニッチなところに見つけて、それなりに知名度も上がってくるだろう。そして仕事において、自分の人生においても良いバディーも見つけるに違いない。

でもどこかで本当に自分にとってユートピアで自由な人生を心の奥にそっと持ったまま、今を生き、稼ぎ、そこと現実との差を感じつつ生きるのだろう。そして色々工夫をしつつ、興味だけは多方面に広げて、仕事やら趣味やら、なんやかんやいろんなところに小さなコミュニティを持って、楽しく人生を編んでいくのだろう。

そして歳をとって体が動かなくなっても、頭脳系の思索は死ぬまで続けるだろう。老後は稼いだ金や大事な人たちとの繋がりを持ちつつ、自分の内的好奇心を満たすためだけに、長年夢見た自分だけのユートピアで生きるんだろう。

 

こう生きるなら、これからやるべきこと

・出来るだけ多様なバックグラウンドを持った他者とガチレベルで関わること。どんなことになろうともどんな感情を経験しようとも、自分の人生なんだから自分で受け取る。

・コミュニケーションの場数を踏む。その際、一回一回、丁寧に向き合う。傷ついてもいい。思い切りと好奇心あるんだからそれで飛び込め。

・色んなバックグラウンド持った人が、具体的にどんな課題を抱えて、それをいかにして乗り越えてきたのか、詳細な背景から知りたい。

知ることで、本当の意味での寛容になるんだろうなと思う。

 

うん、そしてね、

一番いいたいのがね、

今、何かを変えるべき時がきた音がする。

 

今後は、

・この温室育ちによる「物事に根本から疑問を抱かない」というのは私は問題だと思うから、それを自覚した上で、自分の心の成長のためにも一回揺さぶってみる大きな経験が必要だと思っている。

・それプラス、小さく、多様な人と関わるコミュニケーションを詰んでいくことが必要。

 

一方で、

・親がこの環境を与えてくれてきたことで、得られたもの、知れた世界線があることも事実。

今までの世界線で得てきたもの、限られているけどでも多様な人たち、考え方に刺激されて今まで自分自身が形成されていることも事実。

その事実自体は捨てる必要はないし、むしろその恵まれた環境にいてこそ、今自分は幸せなわけで。自分の知るこの自分にとっての幸せな世界を無条件に人に広げていくこと自体はちょっと考えないといけないとは思うけど、社会の中で明らかに自分と違う境遇にいるけど、幸せを願う人達がいるならば、その人たちの立場になって(ここ、最高難易度だと思う、本当に色々考えなくちゃいけない、卒論で考えてもいいかもね笑)、私が使える資源を使って、幸せを一緒に紡いでいくというのはあり。でも紡ぐと言っても、無条件に誰でもいいわけじゃないんだよね。。。これからまた上に書いたこと実践してったら変わってくるだろうか。

 

解決したいのか、伝えたいなのか、はたまたこれらはミックスなのか、、どの部分なら自分はやりたいのか、自分を生かせるのかは、とりあえずこれからやるべきことをこなしてから考えよう。

 

とりあえず、こういう方面のことやりたいというのに留めておいて、上に書いた、今実践すべきことをやってみてから色々また考えようと思う

 

なぜ大学に行く?

大学に行くことは、何のためか。

大学で何を得られるのか。

今回は、現大学3年生の今の私の意見を綴ってみたい。

2つの軸で書く。一つは「学問」的観点から。もう一つは「人間関係」的観点から。

 

(1)学問的観点から

大学の授業を能動的に受けることの意義は、知識を得ることに重点があるのではなく、それらが提供してくれる思考のためのよい「問い」を、自分の興味に合わせて展開する機会を与えてくれることと私は考える。

私は文系の学部にいるわけだが、大学に行って、文系の学問を勉強する意味って、良い問いに触れられる機会が増えることで、自分の思考を「鍛える」ことができるからというのが一つ。

そして、授業の中で扱われた文献や論文から、類似分野の文献をあたり、より広く、問いに対する他人の意見を知ることができたり、自分が興味ある分野の在野研究者がどんな風にして社会と関わっているのかを知ることができ、自分もそこになんの利害もない状態で、積極的に参与できるという所だと思う。

 

もう一つは、何より大学生は「時間がある」から、じっくりといろんなことに向き合える。

学問で言うならば、一つの問いに対して、複数の方向から深く深く考えることができる。

「時間」は、人間の思考を確実に深めてくれる。思考をすることを通じて、自分への理解も深まる。つまり、外にある事象から生まれてきた問いを、自分事にして自分の内で熟成させることを通して、自分自身の理解につながる。そして自分の中で考えたことをもう一度外に戻し、具体的なアクションの形にすることで、外の世界が変わったりする。そうして得たフィードバックから、もう一度自分の中で熟成して……

永遠ループができてしまう。「時間」があることで。

これって、なかなか貴重なことだと思う。特にいろいろ考えるのが好きな人にとっては、「天国」である。何にも邪魔されず、好きなだけ自分の好奇心の赴くままに問いをいろんな方向に深めていくことができるなんて。

あと最近本当に思うが、地方の大学に通っていても、SNSの普及で、情報的にはほぼ格差はないということ。格差があるとしたら、直接経験と周りの人の質くらい。でも今やオンラインで後者は補完できてしまうし、前者も探せば意外とあるんだよね。 大学というハコに縛られない時代がきたかと感じる。

 

(2)人間関係的観点

色んな人間関係に触れられることで、自分という狭く限られた思考媒体に対して、他の視点からの考えに触れることができるようになる。それによって、開放的・批判的に目の前で起こる出来事を捉える訓練をすることができるようになる。

多様な人の考え方を「受け入れられる」ようになることに加えて、多様な人の考えを受け入れた上で自分はどう思考するのか訓練すること、そしてチームのためにどう具体的に行動したらいいのかを考えられるようになる訓練すること、が大学でいろんな人とかかわることのメリットではないかと思う。それは、社会に出てから確実に役に立つスキルであり、人生を実り多く多彩に生きていくためにも、必要なこと。

 

今日はまあとりあえずこんなところで。

またこのテーマで考えることがあったら、またおいおい足していこうと思います~

将来の方向性

私は社会を変えたい、不幸な世を変えたいっていう所に「知」のモチベーションがあるのではなくて、むしろ変化していく社会をどう捉えたら理解しやすくなり、不理解による生きづらさを解消できるのか、ひいては幸せに生きることに繋がるかということに自分の「知」のモチベーションがあって、変化する世の中を気休めではなく「ちゃんと」掴みたいという所が一番。その後に、掴んだものを使って世の中が良くなれば良いなくらいで、最初から世の中を変えたいとは思っていない。掴むこと自体が目的みたいなことまである。でも、社会の中で生きてくとなったら、掴んだことを生かして社会に還元していくことも大事だなと思う。

 

掴みに行く時に、自分は自分のクリティカルシンキングとか、美的感性とか、知的好奇心を使いたい訳で、そこをちゃんと発揮できることが仕事に一番求めることかな。あとは人との交わりも最近はここに入ってくるかなと思ってる。自分自身の経験を肥やすのと世の中掴むのに絶対いるから。

じゃあ、そのクリティカルシンキングと美的感性と知的好奇心が存分に発揮できる完全に理想の環境は、
・自分の欲しい情報を得られる環境

・自分が本気でやることについての知識を得られる環境であること。
・自分の美的感性と知的好奇心を刺激する対象があること←これ大事ね!気づかなかった!
クリティカルシンキングできる落ち着いた自分だけの場所と時間が確保されてること
・自分の知りたい、解き明かしたい対象に関わる人と知り合えること
・自分を将来に向けて深く・広く育てられる場所
・自分のペースでやらせてくれる所

やっぱり私は「考える人」なんだね笑

こう書いてみて、

好奇心が刺激される「対象」が必要ということに初めて気づけた

たしかにそうだよね、仕事とはいえ、やっぱり自分や会社の中に考えるべきものがあらかじめあるのではなくて、外の世界の「おもろい」ものに触れることを通じて、自分の中の好奇心が触発されて自分なりの考察を経た「知」が生まれるわけだもんね。

何を「おもろい」と感じるかは、私の中で常にこれからの人生一定であるとは限らない。

だから、仕事として扱える可能性のある「おもろい」ものや単純に「おもろさ」は、多様である方がいい。

多様言うても、際限なく多様だとキリがない?からある程度は仕事となったらしょうがないかもしれないけど、やっぱ多様な含みのあるものの方がいい。

私は、「何かを作る」というベクトルなら、一人であれこれ考えたいと思う人だし、

「何かを見つめて分析する」というベクトルなら、自分の内部に外のいろんな情報をばーっといれて一つ一つ丁寧に考えるってしたい人だし、自分のペースでやりたいんだよね

 

だから私は、自分の中にあるストックが貯まれば貯まるほど(経験、知見、思考など)、クリティカルシンキングで力を発揮できるタイプだ!大器晩成型だ!

慣れて事情が分かるまでは何も出来ないけど、わかるための努力は継続できるし、全然その時間は苦じゃないし、むしろその過程も楽しい。後々の光が見える瞬間が近づいているのが分かってるから笑  はやく自分が効率的に納得して扱える状態になる所まで持っていけると、あとは自動運転で成長していける。だから、最初の土台を作る段階をゆっくりと見守ってくれるよい「質」の時間が必要。と勉強もバイトもそう。時間が必要なのは知識の獲得だけでなく、人間関係もそう。

それを分かってくれて、ゆっくりでも待っててくれる職がいいな。

初志貫徹なので、周りの都合で頻繁に柔軟にしろと言われるのは嫌い。

でももちろん、正当な理由があるならちゃんと周りの意見も聞く素直さもある。

→研究者、

 

どちらが最終的に自分にとって成功に近づけるかなんて未知数すぎて分からん。世相もあるだろう。でも、最低限思うのは、自分がちゃんと正しい方向で、盲目的にならないように視野を広く取りつつ努力をし、もちろん必要なら自分に足りてないものを補う強い努力もしていけば、何かしらどこかの時点で、自分自身わかることはあるだろうし、何か掴むもの、今後に向けて進む方向が見えてくるんじゃないかと思ってる。人であろうと仕事であろうとものであろうと、なにであるかは知らないが、自分がその時点時点で必要なものを掴み取るための努力と好奇心を継続しつつ、自分の強みを生かしていく方向をあんまり流動的にはしなくても修正しつつ考えていけば、何も得られない人生なんてありようがないと思うんだよね。

 

5.18 追記

私はある理論を深掘りの深掘りのってしたいわけじゃなくて、その理論を使って世の中を見た時に、どう見えて、で、どう良くできるのかを考えたいんだよな。そしてその時理論に欠陥がありそうだったら、そこは実地からの意見という形で、修正したいとは思うんだよね。私はやっぱ、哲学者にはなれない。自分の方に思想の決定権はありたい。私が目指すべきは、哲学的視点からの考察も入れ、対話もし、社会的なものをどうとらえたら、当該現象を多数の視点から見れるか、そして解決できるかということを、自分が能動的に考えて周りと関わって考えたり、対処したりすることを通じて、自分も他人も幸福になりたい。その他人は別に大きくなくてもいい。自分の周りの人達、自分がターゲットにした人達であればいい。
となると、方法論的には複数ありそうだ。
・哲学対話
・計量分析…
もう少し考えてみる。今読んでる本で何か示唆が得られそうな気がするから。

「社会に貢献する」っていっても、

仕事として取り組む対象が、他人側のままやるのか、自分側に取り込んでやるのか。どっちのベクトルが仕事内容として強めなのかはみといて損はない。

私は絶対的に後者なんだなー。前者のはキツい。やっぱ、自分の内発的な所からくる問題意識とか、単なる好奇心に動機を持って来れないとだめなんだよなー。

別に他人側の出来事でも、自分がそれに取り組む自分にとっての「意味づけ」ができれば自分ことになってできるんだけどねー。

結局「自分が仕事をする動機が他人由来だと基本イヤ」

っていうのはある。

仕事だけじゃなくて色んなことも「自分がやりたいからやる、愛したいから愛す、自分の力になるから頑張る、自分の大事な人のためになるならやる」っていうように、、

 

誤解あると嫌だから言っておくけど、「たとえ対象が他人であっても、自分の側に入れ込めてしまえばある程度は」いいんよね。

そうなると、ある程度小さい所がいいのかな。

だもずっとモチベーションの置き所が他人だと、確実に疲れてしまう。自分、自分、ってなるときがくる。

 

私はだからそれをやる「意味づけ」が明確に【できる工夫のある】ところで働きたいし、その職場は「幸福の条件を満たすか」はちゃんと査定したい訳。

 

 

5.25追記

社会学はやっぱり、ある特定の仕方で社会を見ることで、社会像を理解し、自ら問題と思う所を解明し、その問題に対して一石を投じることに特徴がある。

だからそもそも、研究者としてのアイデンティティの確立=どこか特定の立場に立つことを決め、そこに没入することが、社会学を「プロ」として極めている者に見られる特徴だと気づいた。そういう意味での「信念」を貫いてきた人が名を残してきた学問なんだよ。

 

自分は、社会学の中でも、そういった方面で「プロ」になりたいのではないと思った。自分は、多様な価値観を知ったうえで、自分の立場を固辞するのではなく、状況に応じて、そこに存在する問題を考えたり深めるために、「この視点を取った方がいい」というように、「知」を使いたいので、自分の立場としての価値観を固めることは出来ない。これは、どの価値観にも属さずフラフラするという2か月前の私が陥ったきもい状況を言うんじゃなくて笑、自分の人生は自分で編んでいくし、自分の正しいと思う価値観とかは「生活レベル」では重層的に編んでいって、結果結晶させていきたいけど、「社会学者としてレベル」では、固めたくないと思うわけ。そう、そこだね。

自分は、人生は時間的・空間的に非常に振れ幅をもって、大きく経験されるものだと思っているから、そこに明らかに人生を編んでいく一貫した自分はいるのだけれども、自分はあくまで「人生」を編んでいるだけで、「社会学者」の立場から編んでいる訳じゃない。

自分自身と社会学者的自分は明らかに違うわけ。

その理由は、2つ先の記事で私が書いた通り、私自身生きてくる過程で社会に死ぬほど強い問題意識を抱いたことがなかったから、そもそも動機の時点で社会学からはアウトサイダーなわけよ。

 

自分がそのつどその都度問題と感じたことに対して、どう解決策が打てるか、その問題の根本を正しくとらえるにはどんな視点を取ったらいいかと複数視点を比較すること、

「ある現実で起こる特定の出来事・問題」を一つの視点から「解明」することがしたいのではなく、複数の視点を取って得られた新しい視点を用いて「解釈」すること、「納得(解決)」することが、好きなんだ。

そう分かると、自分は「メタ的」な分析が向いているのだろう。その場その場で必要な「複数視点」を柔軟に用いて解釈して、咀嚼して、強みである直感も使って、対象を理解し、扱いやすいものにしたり、問題への適切な解決方法を考えたり……

社会学的な面では私は「メタ視点」の分野で、複数視点を扱う所に関わりたい。

・解釈・咀嚼・価値観の本当の意味での受容と理解のために、広義の哲学を勉強したい。

・物事の根本を捉える直観力を鍛える為に、芸術も含む多様な価値観に触れ(感受性)、抽象から具体、具体から抽象の思考を鍛えるのと、人の根本に関わるストーリー性というものも場数経験して考えたい。

 

現代のように多様化した時代で、「私、~が専門なんです!」って言い切ってしまうの、かなりヤバいことなんじゃないかという気もしてきたよ。うん。
専門分野を「決める」って、きもいから(しそれを求めてくる教授とはおさらばした方がいいよ。)専門分野を「時間とともに編んでいく」っていうことだと思っておきたいけど。まあ一つにいずれ統合せんでも、「広く深く」は、自分得意なタイプだけどね(笑)

社会の中の多様なアクター同士の関係を、(バウマンみたいに流動的だと嘆いて終止したり、意味学派みたいに人はそんなせかいでこそ意味を紡ぐんだと言って終止するのではなく、)常に成長し続ける自分が、一緒に走ることで、理解したり、解いたり、解決したり、時に遊んだりすることが、「世の中を本当に踏みしめていくこと」であり「固有の人間として幸福になること」なんじゃないかな」と思っている。

 

じゃあ具体的に、この自分の本質(だよね(笑))を、「仕事」として社会の中のポジションにフィールドに位置付けていけるかは、これから考えよう。

やっぱり、

・対象のキーワードは、「社会」「自分」「幸福」「より良い生」

・アプローチ方法としては、「メタ分析」「包括的」「直感的」「丁寧な解釈」「対象理解」

・目指す先は、「社会内存在としての個人の幸福」の実現。動機は愛がいい。

 

→これをできる企業・NPOなんてあるんだろうか。これをできる組織って……

(本当にここを検討する段階になったら、ちゃんと基準見て探そう)

自分的には、社会学、哲学、芸術をうまく組み合わせられるようになるには、時間と経験が必要だと思うから、少なくとも、院にはいくべき。2年やってみる。院はどこで何を誰からどのように学べば、将来の自分にとっていいのかはこれから考えないといけないなと思う。

なんか今書いてて思ったけど、こんなにも思考力がある自分、絶対このままいって大丈夫と思う。

 

5.26追記

仮面浪人ならぬ、仮面学科やることになるかもしれん笑

まずは、哲学するをしてみて、本当に自分はその思考が向くのか、学会はどんなんなのかを引き継きみる。のと、哲学するの思考法が、哲学者になる以外の他の領域でもできないのか、調べてみよう。

 

 

変わった経緯

部活の同期と春休みにたくさん遊び、どうやら人との繋がりって私にとって安心できる場所になるんだな、社会学でも言うけどコミュニティとか、人との温かい繋がりってもしかして人にとってエッセンシャルなのかもしれないと悟る。

ファミマのバイトで、気を使わなくていいよと千葉さんに言ってもらい、ああそうなんだ、気を使いすぎてしまう自分はやりづらいんだと悟った。肩の力が少し抜けた。自分はもっと感情に正直に人と接しよう、そっちの方が向こうもやりやすいと気づく。

社会学は自分自身が価値を持ってはいけないのでない。あくまで研究は自分の価値からくる情熱がいると学ぶ。これは最強の意識の転換だった。

哲学の授業で、反利己主義としての思いやりと自己愛からの思いやりという概念を知る。私が従ってたのは、反利己主義としての思いやりだったのかもな、と悟る。自己愛の拡張として人と接したいと思う。

なんとなく私が今までの方向とは違う方向に進みたいことを実感する。じゃあ今までの苦しみは何だったのか。それは、つらい現実に「適応」していたんだと気づく。

そしてこれからはかつてのその「適応」とは違う方向に「適応」したいと望んでいることが分かった。

でも自己愛と利己主義との違いがよく分からなくなり、塞いでしまう。

 

そんな時、彼との別れが現実として浮上してきた。自分は最も親密な関係であるはずの恋人関係で、いったい彼とどう接してきたかを振り返った。そして彼を鏡に自分自身について見つめ直した。そうしたら気づいてしまった。

私には、彼の全てを本当の意味で受け入れられていない。私自身もさらけ出していない。

そこで自分の中で何かが崩れた。いや、崩さざるを得なかった。自分に足りていなかったのは「覚悟」だと。自分の人生も、人の人生も引き受ける「覚悟」がなかったと。

いや、持ちようがなかったと。今までの私だと。私は人との関係を、そしてなんと自分自身をも、回避してたんだと気づく。

だから、空回りしてたんだ。自分が生きづらかったのはその部分を理解していなかったからなんだと。でも、その生きづらさの理由を自分の中で外に求めて、自分自身は悪くないのだ、自分はあくまで中立を貫けばいいんだ、それが一貫しているということであり、それが自分で立つことなんだなんて勘違いしていた。感情も消えていた。今思ういわば人としての感情を消そうとしていた。自分の感情もよくわからず、でもそれに問題意識を持つこともなくそれでいいとしていた。だから、人に曝け出すこともできず、人に話す自分もなく、頼ることも、人のパーソナリティを本当の意味で受け入れ興味を持つことができていなかった。

でも、今ならわかる。それは違うんだと そう言うことではないんだと。

彼に対して今からみたら全く誠実に向き合っていなかったことへの後悔と心からの申し訳なさ、そして自分自身の感情を殺して世の中を勝手に憂えて、自分に全く素直になれていなかったことへの絶望と気づけたことへの心からの喜び。気づかせてくれた彼に感謝するとともに、こんな私に付き合わせてしまったことへの申し訳なさ。こんな感情が真に迫ってきて、どうやら私は、、と悟ったことがあった。

それと同時に、私の母が私に対して持ち続けているのが「覚悟」なんだなと、本当に実感できた。人はへ覚悟と愛をもてることそれは、自分に対する覚悟と愛でもあるんだと思った。

そ私も「覚悟」持ちたいと思うのではなく、もうここまで悟ったら持つしかないと、いや持ちますと思った。持たせてください、と。

そしてダイゴの放送を見てて、回避型は人生な損している。人間関係から学べ。今すぐ回避をやめろ。人生を砂漠で生きることに何の喜びがあるんだ、森の中で山登りをしよう。いつかてっぺんの幸福を見ることができるかもしれない、でもある時は谷のどん底かもしれない。でもいいじゃない。それが人生だというのを聞いて、ああ、そうだね、私も「生き」たいと思った。

だから自分自身と他人との向き合い方を回帰させることをはじめる。

砂漠から森へ。

大丈夫。私ならできる。だって自分の人生を引き受ける「覚悟」を持てたんだから。愛を知ったんだから。

焦らなくていい。少しずつ少しずつ。

 

適応に気付き、覚悟に至るまで、そしてこれから

Superflyが暑苦しく感じなくなったら、それは愛に目覚めていい状態の時。でも、平静でぽかんとしてる感じ。でもそこには本当の意味でのしなやかな強さがある時なんだ。どっちかと言えばポジティブな感じ。薄い黄緑いろの地平が広がっているような感覚。ああ、これだ。私がやりたいことって。

心が解放されてく感じ。この今の自分の状態が好きだ。心に何の重みもないのだけれど、でもからっとしているわけでもない。この、白なんだけど純白じゃなくてオフホワイトで綿の手触りの優しい更紗みたいな。私の名前だ。正に。この今の状態は、この状態単体で肯定されるもので。

一緒にいたい、一緒に間違い、一緒に嘆き、って暑苦しいことじゃないよ。
それが人間関係なんだろうな。フラットな砂漠なんて嫌だ。もう十分、私はそろそろ愛に生きる。なんか懐かしい感覚だ。心の扉を開けておくことって、覚悟なんだなって思う。自分を開いておくことは怖くないよ。回避はもうやめる

傷ついたっていいじゃない。そんなのを恐れて貴重な人間関係を失いたくない。もっと得たい。もっともっと愛したい。
初めては怖い。今までずっと閉じてきたんだから。でも人に対して開くことは怖いことじゃない。そこに自分の人生を引き受ける覚悟があるなら。本当の意味での「自立」って、

人間関係から学んだ事を糧に、自分自身の人生に常に愛を持つ事、自分に関わる人に愛を持つ事。何かを得るためには何かをしてるってことじゃない。
そしてその背景には自分を開いておくことを恐れない、自分の人生を紡ぎ紡がれる「覚悟」がある。

本気で愛す人を見つけたいな

自分を開くって何にどうやってってことだけど、これは今までやってこなかった事だから難しいね。
具体的にどう開いていけばいいんだろうか。あまりスキル的はことは入れない方がいいのだろうか。
どうしたらいいのだろう。まず何かから始めて、徐々に慣れる事から始めるとこから。どこからどんな気持ち

ああ、急に世界に色が戻ってきた。
足取りは少し自身なさげにくらくらするけど、でも何か迷う事はもうないような、なんか芯があるかといわれたらぼんやりふきのとうみたいに透けてはいるけどでもなんか水を受けて鈍くでもなめらかに光るようなそんな感覚

きっと彼は、ここにきてやっと素を出してくれたって思うんだろうな。
私自身も素直になれる。いろんなコミュニケーションの技術も、全ては私の上になるものなんだから、私がからで砂漠を歩いている時に、いくら見栄を張ったって、武装したって、周りとうまくやれる方法を学んだところで、根本で人に自分の中に入られる事を認めてないんだったら、全く意味がない事じゃん。
例えるならあれよ、砂漠を歩いてるのに、重装備を身につけて、一人で疲れて苦しくなっているのと同じよ。
これからは、自分の位置を森にそこで生きたい。そこは感情が渦巻く世界かもしれない。今まで避けてきたものに溢れてる

世界かもしれない。でも、そっちの方がいい。私は元々そっちの世界で輝きたい輝ける住人。自分がそっちに行けたなら、あとは周りとうまくやる術をまさにそこで試せばいい。

まずは砂漠から森へ回帰する所へ。もう砂漠に戻りたくないと思えるように。そうするために自分の人生は自分で引き受ける覚悟を。

もちろんその覚悟は、何かにくっつくものでもないけど、間違いなく自分自身の足取りから学んできてそうしたいと内から自然とでたもの。これは変わらないかな。変わりそうになったらちゃんと一旦止まって、そうじゃないだろ。戻るのは簡単だけど、森に行きたくないか?一度しかない人生、

心豊かに生きていこう、その豊かな中で、自分をおいて、何かしようって思いたいから。
今の心境は非常に落ち着いてる。肝が据わっているというのは、本当はこう言う事なんだ。

もちろん、今まで自分が回避してきたことで誤解されてきてる部分はあって、周りからも変な奴、関わらない方がいいやつと思われてるだろうなっていう環境はある。自分が第二の誕生をして変わっても、向こうは変わらないかもしれない。一旦私に抱いた不信感は消えないものだ。人間だもの。
でも、私はそれも引き受ける。引き受けて、過去の自分が見せてきた姿やマインド、会話すら、引き受ける。
そして自分の中で反芻しつつ

森へと入って水際に触れたい。少しずつだ。それが過去と今それからを繋いでいくこと。引き受けること。夏の暑い中、すごくキンキンに冷えた水のようなみずみずしさで世界をみること。自分はその世界の冒険者になること。主観的に生きること。

でもそれとは別に、この新しい自分を森の中の自分を一から試してもみたい。新しい環境にも入りたい。それは何か利害をもってではなく。

 

 

 

愛す覚悟

なんで男女の仲は、終わったら「別れ」なければいけないの?

なぜ普通の友達なら「別れ」なんてないのに、男女だと「別れ」があるの?

私、恋愛する以前は、男女の仲はお互い成長しあえたらいいなと思ってた。で、口先だけで、お互いが辛い時はちゃんと支え合おうなんて言ってた。それは彼の側が言い出したことだけど、私も、そうだねって同意した。

でも、私は本当の意味で彼を何があっても支えようって、思えてなかったんだなって、別れを前にして気付いた。

本当に彼を支える覚悟があったなら、私は弱音を吐いたりなんかしない人間だ。

私は本当の意味で彼を支える覚悟ができていなかったのかも知れない。

でも、私は彼といる時は、全力で2人の間の時間か空間が最高のものになるように向き合ってきたのは、事実としてあり、それは自分に誇ってあげたい。

でも、別れを前にして急に「覚悟」という言葉が真に迫ってきたのは、私が彼との恋愛の中でずっとうやむやにして答えを保留してたところと、直感を理性で押し込んでたところが、

今剥き出しになって、さあ考えろ今!と迫ってきているからだ。

それはずばり、2人の関係が将来的な何かにつながるのか否かを2人の間で明確にしていなかったし自分も考えようとしていなかったことと。

彼は本当に申し分ない彼なんだけど、それは頭で向き合った時。直感的にはちょっと違うと思い続けていたということ。

この問題は、深すぎる。でもこの機会にしっかり考えてみるべきことだと思うから、考える。

 

頭で恋愛したら申し分ないし、頭からたとえ入った恋愛でも、時間の経過とともに打ち解けていけるというのはある。でも、それは時間という客観的な尺度に、自分の気持ちが変わるのを委ねているにすぎない。そこに、自分の意志はないじゃないかと気づいてしまった。

私は彼に好きだよ、といいながら、いや違うかも知れないなんて迷っていた自分に気づいた。

彼と結ばれているときでさえ、ああ幸せだって本気で感じてたけど、相変わらず本気で感情を出せないままま次の日も帰った。

そう、私は彼の前で、本当の感情を出したことがなかった。いや、これは語弊がある。違うな。自分の感情は素直に出してたけど、それは単に友人と一緒に楽しんでいるときの気楽な感じ、その場その空間がよいものであればいいやっていう、すごい私からしたら深くはないものだった。もちろん、彼といた時の自分の感情は本当だったし、多少無理してでも2人の空間を楽しいものにしたいっていう私自身の気持ちに嘘はなかった。いつでも誠実に向き合ってきたつもりだったし、ある面ではそうだと思う。

でも、私はそこに決定的に無かったものが何か今なら分かる。

 

「覚悟」だ。

 

私は彼を、確固たる意志を持って愛すということができていなかった。付き合ってから8ヶ月たってもなお。

それに気づいてしまった。

じゃあここで今もう一度今の私に問い直したい。

これから、彼を愛すか。愛せるかという他力ではなく、自分で「愛す」か。

 

答えはNoだ。

それが私の答えだ。

まだ次の恋愛なんて全く考える気分じゃないけど、次からは私が愛そう。本気で彼を愛せないと分かった自分にとって、いや本当に彼にとって残酷なことだよ。彼女失格だなって思う。私は、「愛す」ことすら出来なかった。本当の意味で覚悟を持って愛せてないことに気づきすらしなかった。

でも学んだ。ありがとう。

でもこれが理由で別れるって、すごく自分勝手だよね。申し訳ない。私はあなたを支える覚悟は持てなかった、ごめん。彼からしたら残酷な仕打ちだよね。一緒にいたいからって言って、忙しい時間を捻出してくれてたのに。私はそんな彼の努力に応える形で愛すことができていなかった。

この恋愛、本当にたくさんの事を学ばせてもらって、本当に沢山人として成長させてもらって、彼と付き合っていた事に、私の側が支えられて他のことも楽しく取り組んだりできてたよ。あなたといた時間が本当にかけがえのないもので、私の青春の1ページになったことは間違いない。

そして何より、この最後の別れ際に人として人に向き合うときに最も忘れてはいけないこと、大事にしなければと私自身実感させてもらえたこと、「覚悟」そして「愛す」ということ。

本当にたくさんのものをもらった。大学2年の8月に出会い、9月に付き合い、それから8ヶ月。色んな日常の中の小さな楽しみにあなたがいたし、色んなイベントをあなたとともに過ごしたことで私の人生に素敵な彩りが加えられたし、何より私自身がどんな人間なのか、何が好きで何が嫌なのかもあなたが鏡となって教えてくれたし、本当に人としてずっと成長させてもらいっぱなしで、本当に尊敬できるところが沢山あって、もちろんいいとこだけじゃなくて直したらもっと良くなるのにというところもあったけど、それすら言えなかった、、覚悟がなかった自分に、、。

私はあなたに何を与えられただろうか。もしかしたら私ばかりもらってばかりで、何も与えられなかったかもしれない。でも少しの元気と笑顔は与えられたんじゃないかなって思ってる。

好きだよっていう言葉も、今の私に言う資格はない。だから言わないし、軽々しく友達に戻りたいとも言えない。言う資格はない。

これからあなたはあなたの人生をまっすぐ進んでいって欲しいし、たとえ困難があろうと、私が認めた人なんだから、絶対に大丈夫、乗り越えられると信じています。

私は今までちゃんと覚悟がなかった以上、応援するとか軽い気持ちで言えないけど、応援してます。この気持ちは本当。

私も、あなたに負けないように自分の人生はちゃんと自分の足で着実に踏んでいく。前に進んでいきます。

今の別れの段階で、今後私達同士がどんな関係でいたいかについて、私の方から軽々しく言えないけど、私はこれからも良き友でいて欲しいと思っています。

でも、それは私が2人の付き合いの価値観の、辛い時でも支え合うっていうことを守れてなくて別れている以上、私が言えることじゃないから、今後の人生のどこかの時点で交われることがもしあれば、その時は昔はこんなんだったね私達、って懐かしく笑い合えるようになっていれたら嬉しいと言うことに留めておきます。

 

 

現代アート展「あなたの眼はわたしの島」

こんにちは。今回は、現代アートの展覧会の記録です。

京都国立近代美術館で開催されている

ピピロッティ・リストの「あなたの眼はわたしの島」

を見に行ってきました。

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この展覧会をまず一言で表すと、

美術館という「公的空間」において「私的空間」を他の鑑賞者(赤の他人)と一緒に過ごす工夫があったことで、鑑賞者は自身が無意識に持つ「公と私の境界線」の存在を可視化させられ、思わずハッとするような経験をすることができる展覧会。

1.美術館という公的空間を、徹底的に私的空間にする工夫

①海、森などの自然の心地よさを映像や音で表現している。

 現代アートでは、自然を題材にした作品はおいおいにして人々の本能的な恐怖心に訴えかけてくるものが多いが、彼女の作品はそうではない。恐怖を排除した良い部分だけを取り込んでいる。
自然というのは、むき出しのままだと本来は恐ろしいくて手に負えないものだけど、心地いい部分だけを切り取って作品にしているので、私たちはおそろしい自然から一旦距離を取って、安全な場所から安全な面の自然を見ることができる。ある作品で、海の中に映像でのまれていくと、なんだか不思議と自分が子供時代に戻ったみたいな感覚になった。「子供時代」という無垢で純粋なものを、海という自然の良い面を見ることで想起した自分自身の感覚もなかなか面白いと思った。

 

②ベッド・カーペット・クッション・ソファ・食卓など私的領域のものが作品の一部に

鑑賞者は置いてあるこれらの家具に自由にもたれかかったり、寝転がったりすることができる。まるで、うちの中でリラックスして作品を見ているような気分だ。
この工夫からは、私たちの一般的な「美術鑑賞」の態度(静かに・触らない・写真を撮らない…)が、いかに公的な規範として私たち自身の行動を規定しているかが明らかになる。彼女の作品は、こういった普段意識にすら上らない私たちの規範意識に気づかせてくれる。

 

③「性」という私的なものを、公的な場で見せるということ

「性」というテーマは、現代アートにとってはよくあるテーマだが、この展覧会は、何の文脈もなくただ単に性に関する作品を見せられるのではなく、海とか生命とか「原初」の中に浸る体験を鑑賞者にさせた後に性を見せる工夫があって、見せ方がうまいなと思った。
何だろう、私の場合、やっぱり普段の生活の中では「自分は女性」という規範をいろいろな場面で意識させられることが多いから、無意識に女性的な行動をしていてもそれに対して何も感じない、または話すのは恥ずかしいけど、美術館でしかも現代アートの中で性についての作品を見せられると、その無関心さや恥ずかしさはどこかへ消え去って、非常にオープンに性について考え受け入れることができる気がする。
わたしにとっては、アート空間にいること自体が、思考を柔軟にオープンにしてくれるのかもしれない。

 

2.個別の作品について

・アポロマートの壁

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安いものから高いものまで。個人の思い出が詰まったものから単なる一瞬の消費で終わってしまうものまで。そんな多様な意味合いを持ったものたちが、一様に平坦に並べられ、同色の光の元に置かれている状況。
個人の思い出が詰まっているようなものは、結局見ただけじゃそれらの持つ文脈やストーリーは分からない。そういうのは、持ち主(当事者)によって語られ、表現されないとわからない。(ここは社会のいろんな面で言える。)

つまり、文脈から切り離されたものを、単に見るだけでその背景を理解するのは不可能。そこに文脈や大事な意味づけがあるなら、それらは表現されないと伝わらないということを読み取った。

物事にはやっぱり意味づけがあるんだろうなって。そして、それらは語られて初めて他人と共有できる。そこの語りを可能にするのがやっぱ言語(もちろんそれ以外もあると思うけど非言語とか芸術とかのコミュニケーションとか)だと考えると、言語ってやっぱ大事だよね。他人と自分を繋ぐエッセンシャルなものだよねって思う。
こう、話さなくても察してくれるということが通用しないのは、私たち自身が「話さなくても分かってくれる人間関係」を超えた多数の他人とかかわらなければいけなくなっているからという時代背景もあるんだろうなと思う。

 

・アポロマートの床

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光の3つの丸。物事のアドホックさについてはっとさせられる。光がたまたまそこに当たっているから、丸ができてるわけで。いくらでも可変的に変わりうる…。
電気供給がなくなれば、作品としてすらなることができないし。

光と暗のコントラストって、美しいなと直感的に思うのはわたしだけだろうか。

光って、偶然的な相互作用を説明するのによいアナロジーになりそう。あ、でも光はもともと波長が決まっているという点で実際とは違うけど。干渉しあっても自身が変わらないという点で。

 

・愛撫する円卓

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食卓があっても、だれか赤の他人が座ってたら、座る気にならない。これって、食卓を囲うということが、いかに個人の私的領域の側にあるのかという、普段なら絶対に意識しないことを、食卓を囲うという行動の文化面を、気づかせてくれるね。社交としての食卓と、家族との食卓に対するイメージって全然違うんだなって実感。

というか、人って、「食卓を囲うという行動」によって、親密さへ入って行くのかもね。どっちが先か問題。どっちも先ではないか。行動によって思考が作られるし、思考によって行動も作られる。そこには経時とともに「経験」が織りなされていく。それは常に自分によって参照される。

 

・感傷的なサイドボード

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リビング(笑)でも、触っていい所とダメなところの微妙な緊張感がまたなんとも言えず、不思議というか。リビングという私的空間と、美術館という公的空間が綺麗にミックスした空間で私が感じたのは、これは適度に調整されたオアシスだなって感覚。頭はシャキッとするけど、無機質ではないというか。家とかオフィスの在り方的なものを考えさせられる。あと、南国の心地いい音楽がながれてるんだけど、やっぱ南国の綺麗な海、リゾートっていうステレオタイプを私自身抱いていることを実感させられました。

 

他もすべて魅力的だったのはもちろんなんですが、全部書いていたら書ききれない笑
私にとっては非常に思考が刺激されたよい展覧会でしたし、アートというものの奥深さにこれからもますますはまっていきそうです(笑)